長岡市
―大国実頼(直江兼続の弟)が相続し城主となった城
永禄五年(1562)、上田長尾氏の家臣樋口兼豊の次男として生まれた与七(直江兼続の弟)は、天正十年(1582)に小国城主小国重頼の養子となり家督を相続。景勝の命により姓を大国と改めて大国実頼と名乗りました。実頼は同十四年八月の新発田重家討伐に参陣、豊臣秀吉の聚楽第新築の際には、上杉家の使者を勤めています。慶長三年(1598)の上杉氏の会津移封に従い、南会津の南山城主となりました。同六年には山形の高畑城主となり七千石を知行しました。
小国城があったとされる一帯は現在長岡市おぐに森林公園となっています。小国城は標高251メートルの小城山に築かれ、平時の館は小国沢川対岸の真福寺であったと伝えられています。
| 所在地 | 新潟県長岡市小国町上岩田208 |
| アクセス | JR信越本線「塚山」駅より |
| 問 | 長岡市観光課 0258-39-2221 長岡市おぐに森林公園 0258-95-2576 |
森林浴
バーベキューも楽しめます。
―謙信の重臣古志長尾氏の居城そして母虎御前の生家?
築城時期は定かではありませんが、明応年間(1492から1501)には古志長尾氏の居城であったようです。
栖吉城は謙信の母虎御前の生家であるとも言われ、虎御前はまた景勝の祖母でもありました。(一説には、謙信の母は坂戸城の上田長尾氏の娘であったとも言われる)観音菩薩への信仰篤く、幼い謙信に大きな影響を与えたと言われています。
栖吉衆を率いる古志長尾氏は、謙信の下重要な役割を果たしましたが、天正六年(1578)の御館の乱では三郎景虎方につき、景勝に攻められ滅亡しました。栖吉城はその後、景勝の番城となり、慶長三年(1598)景勝の会津移封によって廃城となりました。
栖吉神社わきからの緩やかな尾根が大手道です。標高328メートルの本丸跡からは長岡市街が一望できます。規模の大きな郭、空堀、土塁、畝形阻塞を巧みに設置した非常に堅固な山城で、新潟県の史跡に指定され、山城最盛期の特色が見られます。本丸跡は東西55メートル、南北34メートルと広く、東西南下に幅4メートルの空堀が巻いています。城主館は山麓の、古志長尾氏の菩提寺である普済寺近くの「館の越」にありましたが、今はその面影はありません。
| 所在地 | 新潟県長岡市栖吉町 |
| アクセス | 関越自動車道「長岡」ICより車20分 JR上越線、信越本線「長岡」駅よりバス |
| 問 | 長岡市観光課 0258-39-2221 |
―川中島合戦図屏風、上杉景勝の甲冑、書状などを所蔵
火焔土器のふるさとである関原丘陵にある広大な博物館です。
縄文時代を中心にして、大きな流れの中で雪国新潟県の歴史と文化を知ることができます。常設展示の中世のコーナーには上杉謙信について紹介されており、「和歌山本川中島合戦図屏風」など謙信について展示されています。他に謙信の血判の押された書状や景勝が使用したと伝えられる甲冑「鉄黒漆塗紺糸縅異製最上胴具足」、景勝の書状、直江兼続の覚書などが収蔵されていて、企画展などで展示されます。
| 所在地 | 新潟県長岡市関原1丁目字権現堂2247-2 |
| アクセス | 関越自動車道「長岡」ICより車約5分 JR上越線、信越本線「長岡」駅よりバス40分 |
| 問 | 新潟県立歴史博物館 0258-47-6130 |
| 一口メモ | 開館時間 9時30分から17時(入館は16時30分まで) 休館日 毎週月曜(祝日にあたる場合はその日以降の最初の平日)、12月28日から1月3日、臨時休館・臨時開館あり 観覧料(常設展示) 一般400円、高大学生200円、小中学生100円 団体一般320円、高大学生160円、小中学生80円(団体は20名以上) 小中学生は土、日、祝日無料 |
―直江兼続の書状、肖像画、遺墨などを展示
直江兼続は天正九年(1581)に直江氏の名跡を継ぎました。そして慶長三年(1598)の米沢城移封までの十七年間与板城を居城とし、上杉景勝の執政として手腕を揮いつつ城下町与板の発展に尽くしました。
与板歴史民俗資料館には、兼続が市村監物にあてた書状、兼続の肖像画、遺墨など、与板城に居城した武将たちの遺品が展示されています。他にも直江家の菩提寺であった徳昌寺の境内から出土した縄文時代の火焔土器、江戸時代の井伊家の遺品などが展示されています。館の前庭には直江兼続の銅像が建てられ、その姿に思いを馳せることができます。
与板歴史民俗資料館の映像はこちら>
| 所在地 | 新潟県長岡市与板町与板乙4356 |
| アクセス | 北陸自動車道「中之島見附」ICより車10分、「長岡」ICより車20分 JR上越線、信越本線「長岡」駅、「見附」駅よりバス |
| 問 | 与板歴史民俗資料館 0258-72-2021 |
| 一口メモ | 開館時間 9時から16時30分 休館日 毎週月曜、年末、年始(12月28日から翌1月4日) 入館料 大人300円、小中学生150円 団体大人250円、団体小中学生100円(団体は15名以上) |
―城下町与板の基盤は兼続によって築かれた
直江兼続は与板城在城中に、新田開発や鉄砲産業の振興、市の開催、道路の整備など農、工、商業全般にわたりその発展に尽力し、その手腕を揮いました。
与板の城下町としての基礎は兼続によって築かれたと言っても過言ではないでしょう。その一方で幼いころから学を好み、大変な読書家でもありました。
二の丸跡は本丸跡の南に位置し、幅30メートル長さ75メートルの広さがあります。さらに南の方向に三の丸から千人溜などの主郭が一列に配置されています。それぞれ土塁をめぐらせ、深い空堀で区切られており千人溜側には斜面15メートルの大空壕があります。本丸跡から北側を下ると大手道があり、西の谷には城主の館があったと伝えられています。
城山は新潟県の文化財に指定されています。
| 所在地 | 新潟県長岡市与板町与板 |
| アクセス | 北陸自動車道「中ノ島見附」ICより車20分 JR上越線、信越本線「長岡」駅、「見附」駅よりバス |
| 問 | 与板町観光協会 0258-72-3100 |
| 一口メモ | 八坂神社わきの登り口―近くのうみまち森林公園の駐車場利用可 |
―上杉景勝の執政直江山城守兼続の居城跡
御館の乱に勝利した上杉景勝の執政となった直江兼続は、行政、財政、軍事、外交面すべてにわたり手腕を発揮していきます。
奉行として兼続を支えたのは、家臣団の「与板衆」でした。与板には百二十一名の与板衆がいたと伝えられています。慶長三年の景勝の会津移封に伴い「与板衆」も兼続に従いました。
与板城は標高104メートルの山城で新潟県の史跡に指定されています。本丸跡は東西27メートル、南北42メートルあり、西端には高さ2メートル、長さ46メートルの土塁が巻いています。二の丸、三の丸の間はそれぞれ4メートルから9メートルの深い空堀で区切られています。本丸跡には城山稲荷神社が祀られ、樹齢四百年と伝えられる城の一本杉、直江兼続の碑、海音寺潮五郎の碑などが建っています。
与板城の映像はこちら>
| 所在地 | 新潟県長岡市与板町与板 |
| アクセス | 北陸自動車道「中ノ島見附」ICより車20分 JR上越線、信越本線「長岡」駅、「見附」駅よりバス |
| 問 | 与板町観光協会 0258-72-3100 |
| 一口メモ | 八坂神社わきの登り口―近くのうみまち森林公園の駐車場利用可 |
―上杉謙信の生涯を描いた「天と地と」の著者直筆の碑
上杉謙信は戦国時代の武将の中でも特異な存在でした。金銀山の開発、水利事業、新田開発、あおその生産と販路の拡張など経済政策とともに義を重んじ、経済と義の両方のバランスを見事にとりながら、越後の国の秩序を保っていたのです。
直江兼続は春日山城にいたころ謙信からさまざまな薫陶を受けたと言われています。
謙信亡き後、兼続は主君景勝の下で、師と仰ぐ謙信の志を受け継ぎ政治に経済にと、その辣腕を振るっていきます。その後上杉家が米沢に減封となってからも、この「謙信―兼続」の志は引き継がれて、上杉鷹山へと繋がっていったのです。
与板城本丸跡に建つ碑には、海音寺潮五郎直筆の「直江山城守旧城跡本丸」と刻まれています。
| 所在地 | 新潟県長岡市与板町与板 |
| アクセス | 北陸自動車道「中ノ島見附」ICより車20分 JR上越線、信越本線「長岡」駅、「見附」駅よりバス |
| 問 | 与板町観光協会 0258-72-3100 |
| 一口メモ | 八坂神社わきの登り口―近くのうみまち森林公園の駐車場利用可 |
―「所望事信一字」兼続直筆の文字を刻んだ石碑
与板城のある城山山麓の八坂神社の石段を登ると、遊歩道が続いています。しばらくは竹林の中を登る道ですが足元には笹の葉が敷きつめられており、ときに聞こえてくる小鳥のさえずりが心地良い道です。しばらく登ると周りは杉木立に変わり、頂上はもうすぐです。標高104メートルの城山頂上の本丸跡には、城山稲荷神社が祀られ、城の一本杉や兼続の碑、海音寺潮五郎の碑などが建っています。
兼続の碑には直筆の書状から一文が刻まれており、「所望事信一字(望むところのこと信の一字) 慶長二年二月六日 直江山城守兼続 花押」とあります。
| 所在地 | 新潟県長岡市与板町与板 |
| アクセス | 北陸自動車道「中ノ島見附」ICより車20分 JR上越線、信越本線「長岡」駅、「見附」駅よりバス |
| 問 | 与板町観光協会 0258-72-3100 |
| 一口メモ | 八坂神社わきの登り口―近くのうみまち森林公園の駐車場利用可 |
―兼続の妻お船の方の名がついた山城の水源
おせんとは直江大和守景綱の娘であり信綱の未亡人、後に兼続の妻となったお船の方のことです。この清水の名はここから付けられたものです。
山麓の八坂神社から本丸跡までは遊歩道が整備されており、おせん清水は本丸へと向かう道の中ほどにあります。今でも水が湧き出ており山城の貴重な水資源であったと思われます。
兼続は生涯にわたって側室を一人も持ちませんでした。直江兼続とお船の方は仲睦まじい夫婦であったと伝えられています。
| 所在地 | 新潟県長岡市与板町与板 |
| アクセス | 北陸自動車道「中ノ島見附」ICより車20分 JR上越線、信越本線「長岡」駅、「見附」駅よりバス |
| 問 | 与板町観光協会 0258-72-3100 |
| 一口メモ | 八坂神社わきの登り口―近くのうみまち森林公園の駐車場利用可 |
―直江家の菩提寺は良寛ゆかりの寺
杉木立の中、苔むした石段を登ると立派な構えの山門に迎えられます。文明十一年(1479)に創建された曹洞宗の古刹香積山徳昌寺です。
ここ徳昌寺は直江家の菩提寺であり、兼続から「本尊仏供米」二百五十石を付与されました。直江氏の会津移封に伴い移転しましたが寛永年間ころ与板に戻りました。ここはまた良寛の父以南の生家、新木家の菩提寺でもあります。境内には縄文時代の遺跡もあり、出土した火焔土器は与板歴史民俗資料館に展示されています。
| 所在地 | 新潟県長岡市与板町与板乙6025 |
| アクセス | 北陸自動車道「中ノ島見附」ICより車20分 JR上越線、信越本線「長岡」駅、「見附」駅よりバス |
―豊臣秀吉をして戦国の世の三傑と言わしめた人物
直江兼続は坂戸城主長尾政景の家臣樋口惣右衛門兼豊の長子として坂戸城下で生まれました。その利発さを認められ、景勝の小姓となります。その後景勝が謙信の養子となったため景勝に従い春日山城に入りました。謙信の死後起こった御館の乱で、景勝擁立の中心的役割を果たし、重臣直江家の名跡を継ぎ、与板城主となりました。その後豊臣政権のもとで景勝に従い数々の功績を上げていきます。秀吉は、「天下の政治を安心して預けられるのは兼続など数人に過ぎない」と高い評価を与えたと言います。
慶長三年景勝の会津移封に伴い、米沢城三十万石に国替えとなり与板を去りましたが、在城中には与板の発展に力を尽くしました。
直江兼続銅像は直江山城守兼続の業績をたたえて、平成元年に与板町歴史民俗資料館前に建立されました。
| 所在地 | 新潟県長岡市与板町与板乙4356 |
| アクセス | 北陸自動車道「中ノ島見附」ICより車20分 JR上越線、信越本線「長岡」駅、「見附」駅よりバス |
| 問 | 与板町観光協会 0258-72-3100 |
―鉄砲の製造や市の開催、城下の発展にも尽くした兼続
天正九年直江家を相続した兼続は、民政にも優れた手腕を発揮しました。
新田の開発、治水整備、市の開催、鍛冶産業に力を注ぎ発展させました。与板城北方の谷間には、「館の御廊」城主の住居、「備後の小路」武士の住居、「矢の小路、竹の小路」武器の製造所などの地名が残っており館や町割りのあとを偲ぶことができます。城下は城北側の谷間と東側の水田郷にわたって存在していたと推測されています。
手工業では出雲や播磨から運ばれた鉄を使っての舟戸の鉄砲製造、交通では長岡・小千谷方面や寺泊・出雲崎方面への道が整備されました。
こうして兼続の下で、与板城を中心とした城下町の基礎は、築かれていきました。
与板十五夜まつりの映像はこちら>
楽山苑の映像はこちら>
菖蒲まつりの映像はこちら>
たちばな公園の映像はこちら>
| 所在地 | 新潟県長岡市与板町与板 |
| アクセス | 北陸自動車道「中ノ島見附」ICより車20分 JR上越線、信越本線「長岡」駅、「見附」駅よりバス |
| 問 | 与板町観光協会 0258-72-3100 |
―直江実綱(景綱)、信綱、兼続三代の居城した城
上杉謙信の重臣直江実綱(景綱)の婿養子、信綱は春日山城で斬殺されます。御館の乱の恩賞問題で毛利秀広と山崎秀仙のいさかいに巻き込まれたためでした。景勝は直江家の名跡を惜しんで、御館の乱で軍功のあった樋口兼続に与板城(本与板城)と直江の名跡を与えました。
本与板城は南北朝の動乱期に新田氏の一族の籠沢入道が築城したと伝えられています。その後は上杉房定の重臣飯沼氏の居城となり天文十五年ごろ実綱の城になりました。
標高98メートルの山城で新潟県の史跡に指定されています。実城跡から西にのびる尾根上に二の丸、三の丸が一列に配され、土塁と深い空堀によって防備したもので、典型的な戦国期の遺構が随所に残っています。山麓には城主館跡、別当屋敷跡、長松寺屋敷跡があります。
本与板城の映像はこちら>
| 所在地 | 新潟県長岡市与板町与板 |
| アクセス | 北陸自動車道「中ノ島見附」ICより車20分 JR上越線、信越本線「長岡」駅、「見附」駅よりバス |
| 問 | 与板町観光協会 0258-72-3100 |
―四百年の歳月を越えて今も息づく城山の一本杉
慶長三年(1598)、上杉景勝の会津移封に伴い、直江兼続は米沢三十万石に入りました。小説『天地人』では、「与板衆が二百余騎。ほかに若党、中間、小者を合わせ、総勢千人近い。・・・途中、与板へ立ち寄り、国替えにあたってのもろもろの指示をおこない、先祖の墓参りや土地の寺社仏閣への挨拶をすませた。」とあります。
与板城の本丸に立つこの一本の杉の木は、兼続が会津移封にあたって植樹した五本の杉のうちの一本だと伝えられています。樹齢は約四百年、根元周6.6メートル、目通り周囲3.5メートルの巨木です。
与板城の映像はこちら>
| 所在地 | 新潟県長岡市与板町与板 |
| アクセス | 北陸自動車道「中ノ島見附」ICより車20分 JR上越線、信越本線「長岡」駅「見附」駅よりバス |
| 問 | 与板町観光協会 0258-72-3100 |
| 一口メモ | 八坂神社わきの登り口―近くのうみまち森林公園の駐車場利用可 |
―米沢から分霊され栃尾に、隣には恩師門察和尚の碑
明治四十一年から始まった謙信祭十周年記念事業のなかで、大正四年に建てられたものです。米沢の上杉家より「不識院殿真光謙信の霊牌一基」を贈られ、秋葉公園、七曲山頂の謙信御廟所に祀りました。その隣には、謙信が栃尾城に居城していたときの学問の恩師であった門察和尚の碑が建っています。類まれなる学識で名高い門察和尚は、今は無き瑞麟寺五世として謙信を導き、常安寺を開山しています。
| 所在地 | 新潟県長岡市谷内2丁目 |
| アクセス | 関越自動車道「長岡」IC、北陸道「中ノ島、見附」ICから国道8号351号経由30分 JR「長岡」駅から栃尾車庫行きバス約50分 |
| 問 | 長岡市栃尾支所商工観光課 0258-52-5827 栃尾観光協会 0258-51-1195 |
―景虎修行の寺、唯一の遺品となった瑞麟寺の梵鐘
瑞麟寺は景虎が栃尾で修行した寺であり、常安寺の前身の寺です。吉川町の転輪寺の末寺にあたり、景虎の父為景が創設したと伝えられています。景虎はここで、学識の高さを謳われた五世の門察和尚の教えを受けその素養を磨きました。景虎は瑞麟寺に郡司不入の特権を与えて大切にしましたが、天文十七年に焼失してしまいます。唯一焼け残った梵鐘は、継承する形で建立された常安寺に移され、現在もその姿を見ることができます。
梵鐘は袈裟たすきという縦横の二箇所に撞座をつけた典型的な和鐘で、高さ74.8cm、口径62.8cmあり、願文と大永三年(1523)の年号が刻まれています。
| 所在地 | 新潟県長岡市谷内2丁目7-7 |
| アクセス | 関越自動車道「長岡」IC、北陸道「中ノ島、見附」ICから国道8号351号経由30分 JR「長岡」駅から栃尾車庫行きバス約50分 |
| 問 | 常安寺 0258-52-2318 |
| 一口メモ | 瑞麟寺があった場所は長い間特定されていませんでしたが、大正時代に判明し、国道351号線沿い近くに記念碑が建っています。正確な寺跡はそれより斜めに下った刈谷田川の宮沢左岸の東に向いた段丘上にあります。 |
―謙信によって創設され庇護された曹洞宗の古刹
上杉謙信により創設された曹洞宗の寺院です。謙信が十三歳のとき「胎田の乱」が起こりました。謙信は一時的に林泉寺に難を逃れますが、栃尾瑞麟寺の芳山周薫がその弟子だった門察とともに、謙信を助け出し寺にかくまいます。しかしその後、寺は焼失しました。謙信は天文二十年(1551)、その恩に報いる形で清滝山常安寺を建立しました。そしてその開祖となり、開山は瑞麟寺五世の泰廉門察和尚としました。常安寺は謙信の庇護の下、一時は伽藍を七堂も配置するほどの隆盛を誇ったと言います。
現在の本堂は昭和五十四年に再建されたものです。新潟県の文化財に指定されている謙信直筆の「絹本著色上杉謙信並二臣像一幅」や「上杉謙信自筆五言対句一幅」、謙信が愛用したという「飯綱大権現騎弧の兜の前立て」が収蔵、公開されています。
| 所在地 | 新潟県長岡市谷内2丁目7-7 |
| アクセス | 関越自動車道「長岡」IC、北陸道「中ノ島、見附」ICから国道8号351号経由30分 JR「長岡」駅から栃尾車庫行きバス約50分 |
| 問 | 常安寺 0258-52-2318 |
―謙信ゆかりの秋葉神社境内にある桜と紅葉の名所
通称「七曲がり」と呼ばれる秋葉公園からは栃尾城跡を背景にして栃尾の町が一望できます。ここは、火伏せの神として名高い秋葉神社の境内を公園として整備したところで、現在では春の桜、秋の紅葉の名所として親しまれています。
秋葉神社は秋葉三尺坊大権現と言われ、天文二十年に常安寺の守護神として、謙信が楡原蔵王堂から遷したと伝えられています。毎年7月24日には秋葉の火祭りが開かれ、四千人あまりの人で賑わい、栃尾の夏の風物詩となっています。公園内には、僧の姿の謙信像や謙信廟があります。
謙信公祭の映像はこちら>
| 所在地 | 新潟県長岡市谷内2丁目 |
| アクセス | 関越自動車道「長岡」IC、北陸道「中ノ島、見附」ICから国道8号351号経由30分 JR「長岡」駅から栃尾車庫行きバス |
| 問 | 長岡市栃尾支所商工観光課 0258-52-5827 栃尾観光協会 0258-51-1195 |
―栃尾城跡を背景にして座す僧形の謙信像
上杉謙信の銅像はそのゆかりの地に、さまざまな姿で建てられています。
白頭巾を被った姿で立つ春日山城の謙信像。上杉家減封の地、米沢には、厳しいまなざしで前を見据えた軍神のごとき謙信像。合戦の地、川中島では信玄に斬りかからんとする馬上の謙信像。栃尾美術館前の謙信像は、栃尾城防衛戦の折りの初々しい姿を映しています。
そしてここ秋葉公園の謙信像は僧の姿をしたもので、左手に数珠、右手に軍配団扇、腰には刀を差し、厳しい中にも慈愛を感じさせる風貌で、栃尾城を背景にして座っています。
| 所在地 | 新潟県長岡市谷内2丁目 |
| アクセス | 関越自動車道「長岡」IC、北陸道「中ノ島、見附」ICから国道8号351号経由30分 JR「長岡」駅から栃尾車庫行きバス約50分 |
| 問 | 長岡市栃尾支所商工観光課 0258-52-5827、栃尾観光協会 0258-51-1195 |
―長尾景虎(謙信)旗揚げの城、御館の乱では景勝に抵抗
築城時期は定かではありませんが、南北朝の動乱時代には北朝の拠点となり、室町時代には古志長尾氏が交代で在城していました。長尾景虎(後の上杉謙信)旗揚げの城として有名です。天正六年(1578)の御館の乱の際には城主本庄秀綱は景虎方につき景勝に抵抗しますが、同八年四月、景勝軍の猛攻撃を受け落城しました。
本丸跡は標高227メートル、比高157メートル。険しい稜線と深い谷を利用して築かれた、堅固な中世の山城です。西に流れる刈谷田川、西谷川が天然の堀となっています。曲輪、馬場跡、千人溜、今も湧く金銘泉、狼煙台などの遺構がよく残っており、本丸跡裏側には野面積石垣が鉢巻状にめぐらされています。新潟県の史跡にも指定されている貴重な遺跡で、山頂からは刈谷田川や栃尾盆地が一望でき、ここが天然の要害であったことが実感されます。
慶長三年(1598)上杉景勝の会津移封によって堀家の家臣神子田政友が城主となりましたが、同十五年(1610)堀家の没落とともに廃城となりました。
| 所在地 | 新潟県長岡市栃尾大野町 |
| アクセス | 関越自動車道「長岡」ICより車30分 JR上越線、信越本線「長岡」駅よりバス「栃尾新町」下車 |
| 問 | 栃尾観光協会 0258-51-1195 |
小国城址(おぐにじょうし)





