史跡ガイド

上越市

―直峰城を征したことが御館の乱の勝利へと繋がった

 

 築城時期は不明ですが、南北朝時代には南朝方の風間氏の居城でした。天正六年(1578)の御館の乱では、景虎方についた城主の長尾景明は景勝の策略により自刃。

 

 要衝の直峰城(春日山城から上田の庄・関東へと抜ける最短ルートの第一中継城)を押さえたことで景勝は戦略上、非常に有利になりました。景勝は戦功のあった樋口兼豊(直江兼続の父)を城代に任じ、この地域を統制させています。慶長三年(1598)、堀秀治の家臣堀光親が直峰城に入りましたが、慶長十五年の堀氏の改易により廃城となりました。

 

 直峰城は標高344メートルの中世の典型的な山城で新潟県の史跡に指定されています。一の曲輪跡からは日本海・頚城平野・春日山・米山・東頚城の山々が一望でき交通の要衝であったことがうかがえます。樹齢八百年の大欅や大規模な空堀・堅堀・曲輪跡・金明水・食料蔵や武器蔵の跡・百間馬場・上杉軍道の石畳などが残っており、戦国時代の面影を偲ぶことができます。

 

所在地 新潟県上越市安塚区安塚
アクセス 北陸自動車道「上越」・「柿崎」ICより車30分
JR信越本線・北陸本線「直江津」駅よりバス
上越市教育委員会 025-526-5111

 

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―反徳川勢力を抑えるための天下普請で築城された城

 

 慶長十九年(1614)、徳川幕府は上杉家・伊達家・前田家などの諸大名に高田城の築城という大きな普請役を課しました。反徳川勢力抑止のための「天下普請」でした。総奉行は伊達政宗が勤め、上杉家からも二名を奉行として高田に派遣。直江兼続も自ら高田へ足を運び指揮に当たっています。越後を後にしてから十六年の歳月が経っていました。普請が終わると家康は諸大名に大坂攻めの陣触れを発します。

 

 高田城は家康の六男・松平忠輝によって築かれ、高田平野の中央、関川と矢代川の合流点に位置しています。

 

 石垣を使わず、堀と土塁による平城で三重櫓を天守閣の代わりとしました。酒井氏・松平氏・稲葉氏・榊原氏が城主となりましたが、明治維新後、廃藩置県により廃城となりました。その後、陸軍の駐屯地となったため遺構は失われ、現在では本丸土塁・内堀・外堀の一部が残り、三重櫓が復元されて、高田公園として春の桜・夏のハスで市民に親しまれています。

 

所在地 新潟県上越市本城町6-1
アクセス 北陸自動車道「上越」IC、上信越自動車道「上越高田」ICより車
JR信越本線「高田」駅より徒歩20分
高田城三重櫓 025-526-5915
上越市文化振興課 025-526-5111
一口メモ 三重櫓 開館時間9時から17時
休館日 月曜日(休日の場合は翌日)、12月29日~1月3日、冬期臨時休館あり
入館料 大人200円・小中高生100円(団体割あり・20人以上)

 

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―上杉謙信の師である天室光育の眠る寺

 

 天文十三年(1534)林泉寺の第六世天室光育を招き、上杉謙信の重臣柿崎和泉守景家によって建立された曹洞宗の寺院で、大仏山楞厳寺といいます。

 

 天室光育は幼少の謙信を文武両面にわたって教育したという禅僧で、謙信に大きな影響を与えたと言われています。光育は永禄六年(1563)に逝去しました。柿崎景家は長尾為景、景虎父子二代に仕えた重臣で、「謙信の四天王」とも評されました。

 

 柿崎城の搦手門を移築したと伝えられる楞厳寺の山門を入ると、本堂と苔の美しい庭園があります。本堂の背後には墓域となっている山があり、木々が繁り森閑とした中に柿崎景家や天室光育の墓があります。天室光育の「楞厳寺禅林記録」(新潟県文化財)、上杉景勝の寺領安堵状、柿崎和泉守夫妻肖像画などを収蔵しています。

 

所在地 新潟県上越市柿崎区芋島2727
アクセス 北陸自動車道「柿崎」ICより
JR信越本線「柿崎」駅よりバス
楞厳寺 025-536-5205
一口メモ 駐車場あり

 

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―上杉謙信が再興した聖武天皇勅願の越後国分寺

 

 天平十三年(741)聖武天皇の勅願によって、全国に国分寺と国分尼寺が建立されました。越後の国分寺もこのときに建立されましたが、その場所はよくわかっていません。

 

 永禄五年(1562)上杉謙信が国分寺の荒廃を見るに忍びず、現在の場所に再興したと伝えられています。

 

 五智国分寺は安国山華蔵院といい、天台宗の寺院です。本尊は如来、大日、釈迦、宝生、薬師、弥陀の五体で、寺の名前はここに由来しています。朱塗りの山門を入り正面の本堂は幾度となく火災に会い、現在の本堂は平成九年に再建されたものです。明治時代に再建された三重塔の伽藍は未完ながら、新潟県の文化財に指定されています。境内には親鸞聖人ゆかりの竹之内草庵や自作の等身大の木像、芭蕉の句碑などがあります。

 

所在地 新潟県上越市五智3丁目20-21
アクセス 北陸自動車道「上越」ICより車10分
JR信越本線、北陸本線「直江津」駅よりバス
五智国分寺 025-543-3069
一口メモ 駐車場あり

 

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―神仏に献じる花や薬草が栽培されていた

 

 関が原の合戦に勝利した徳川家康によって、上杉家は会津から米沢三十万石に減封となりました。しかし直江兼続の本領は、むしろその後で発揮されたと言われています。

 

 兼続は農・商・鉱工業全般にわたり内政に力を注ぎました。

 

 あおそ、紅花、桑、漆、こうぞなどの栽培を奨励し、自ら『四季農戒書』という書物を著し村々に配ったと言います。それは農産物に関してだけでなく、働く喜びや生きる喜びをいかに得るかについての指南書でした。

 

 幼少のころ雲洞庵の通天存達和尚から受けた「国の成り立つは民の成り立つを以ってす」という教えは、兼続のこころに深く刻まれていたのでしょう。

 

 お花畑は毘沙門堂から北に一段降りたところにあります。そしてお花畑から東に降りると直江屋敷跡です。ここでは各御堂に献じる花や薬草などが栽培されていたとされています。


 兼続の医学に対する関心の高さは、朝鮮侵略に際して肥前名古屋に在陣中に医書『済世救世方』を書写したという事実からも知られています。戦国の武将は過酷な時代状況の中で適正な自己管理が求められました。薬草も戦国の世を生き抜く上で大事な役割を果たしたのです。

 

所在地 新潟県上越市大豆
アクセス 北陸自動車道「上越」ICより15分
JR信越本線「春日山」駅より徒歩30分で登り口、北陸本線「直江津」駅よりバス
上越市教育委員会 025-526-5111
一口メモ 駐車場有り

 

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―謙信の壁書はここに掛けられていたという

 

 春日山城には「運は天にあり、鎧は胸にあり、手柄は足にあり」で始まる上杉謙信の壁書が掛けられていたと言います。 そこには戦陣の心得が書かれていました。

 

 小説『天地人』では会津移封を前にした直江兼続が、天守台にある謙信の壁書に向き合う場面があります。

 

 謙信は、「いつも敵を掌に入れて合戦をするべきである。そうすれば敗けることはない。死のうと戦えば生き、生きようと戦えば死ぬるものなり。これは不定のようだが、武士の道を不定と思ってはならない。必ず一つの定まっているものがあるのだ。」と、無欲であることの大切さを壁書に記しました。

 

 春日山城山頂には本丸跡の南に深さ2メートルの空堀を挟み、東西22メートル南北19メートルの天守台跡があります。二層か三層の櫓があったのではないかとされています。

 

所在地 新潟県上越市大豆
アクセス 北陸自動車道「上越」ICより15分
JR信越本線「春日山」駅より徒歩30分で登り口、北陸本線「直江津」駅よりバス
上越市教育委員会 025-526-5111
一口メモ 駐車場有り

 

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―自らを北方の守護神、毘沙門天の化身と信じた

 

 毘沙門天とは仏教の護法神であり、仏の住む須弥山を守護するという四天王のひとつで、多聞天とも言います。なかでも毘沙門天は北方の守護神で、その姿は甲冑を着けた武神として表され、足利尊氏や楠木正成にも崇敬されました。

 

 謙信の毘沙門天への信仰は篤く、春日山城に毘沙門堂を建てて祈りを捧げたと言います。

 

 自らを毘沙門天の化身と信じ、軍旗にも「毘」の文字を用いた謙信は、朝廷と幕府の守護神として北方の地域の平安に努めようとしたのです。出陣に際しては御堂の前で出陣式を行い、諸将が誓を立てたと言われています。本丸跡の北下方には護摩堂跡、諏訪堂跡、毘沙門堂、などの御堂が一列にならんで配置されています。

 

 現在の毘沙門堂は昭和六年に復元されたものです。

 

所在地 新潟県上越市大豆
アクセス 北陸自動車道「上越」ICより15分
JR信越本線「春日山」駅より徒歩30分で登り口、北陸本線「直江津」駅よりバス
上越市教育委員会 025-526-5111
一口メモ 駐車場有り


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―執政として景勝を支えた天下の陪臣直江兼続の屋敷跡

 

 天正六年(1578)に勃発した御館の乱後、上杉家の家老職に就いた樋口与六兼続は、直江家の名跡を継ぎ直江兼続と名乗りました。

 

 もう一人の家老狩野秀治が死去すると、執政となり、内政外交にと一手に重責を担うことになります。景勝に従って初めて太閤秀吉に謁見したのは、天正十四年兼続二十七歳のときでした。

 

 その後、新発田重家討伐、佐渡平定、小田原征伐と功績を上げ、「天下の政治を安心して預けられるのは、直江兼続など数人にすぎない」と秀吉に高く評価されたと言います。

 

 兼続は内政にも優れた手腕を発揮し、殖産興業に尽力しました。

 

 一方蔵書家でもありました。兼続の蔵書、宋版「史記」「漢書」「後漢書」は国宝に指定されており、「文選」(直江版)は日本初の銅活字本で、後世に大きな影響を与えました。

 

 直江兼続屋敷跡は本丸跡北下方のお花畑から東に降りたところにあります。土塁、空堀が残っており頚城平野が見渡せます。

 

所在地 新潟県上越市大豆
アクセス 北陸自動車道「上越」ICより15分
JR信越本線「春日山」駅より徒歩30分で登り口、北陸本線「直江津」駅よりバス
上越市教育委員会 025-526-5111
一口メモ 駐車場有り

 

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―戦国の世に生を受けた、孤高の聖将上杉謙信

 

 享禄三年(1530)上杉謙信は越後守護代長尾為景の末子として、春日山城で生まれました。

 

 七歳のとき、城下の林泉寺に預けられ名僧天室光育禅師より厳しい教育を受けました。この時期に謙信の素養が培われたと言われています。

 

 十四歳のとき守護代長尾家を継いだ兄晴景の要請で、栃尾城に入り騒乱を鎮圧。

 

 天文十七年(1548)十九歳のとき兄に代わって守護代長尾家を相続しました。

 

 その後四十九歳で死去するまでは、諸将の救援の求めに応じ遠征に明け暮れる年月でした。しかし自国の領土拡大のための戦はせず、戦国武将には稀有な、義に生きた名将として有名です。


 朝廷と幕府の再興という夢を持っていた謙信は、関東遠征を目の前に突然その生涯を閉じました。

 

 謙信公の銅像は春日山神社の参道の脇に建っています。NHKの大河ドラマ「天と地と」放映のおりに石垣とともにつくられました。甲冑を着け、白頭巾を被り遠くを見つめて立っています。堂々とした中にも清廉な心を宿したまなざしの謙信公像です。

 

所在地 新潟県上越市大豆
アクセス 北陸自動車道「上越」ICより15分
JR信越本線「春日山」駅より徒歩30分で登り口、北陸本線「直江津」駅よりバス
上越市教育委員会 025-526-5111
一口メモ 駐車場有り

 

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―十一年間にも及んだ川中島合戦犠牲者の供養塔

 

 天文二十二年(1553)、武田信玄に領土を奪われた村上義清ら北信濃川中島地方の諸将は、長尾景虎(上杉謙信)に救援を求めました。それに応えて出陣したのが、十一年にも及んだ川中島合戦の始まりです。合計5度にわたって、犀川と千曲川に挟まれた地域とその周辺で、合戦が繰り返されました。中でも永禄四年(1561)の第4次の合戦は激戦となり、武田軍4千名以上、上杉軍3千名とも言われる多大な犠牲者を出したと伝えられています。

 

 川中島合戦供養塔は、林泉寺の墓所にあり、1623年に建てられたものです。

 

所在地 新潟県上越市中門前1丁目1-1
アクセス 北陸自動車道「上越」ICより15分
JR信越本線「春日山」駅より徒歩30分、北陸本線「直江津」駅よりバス
林泉寺 025-524-5846
一口メモ 駐車場有り(50台)

 

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―上杉謙信公のこころはふるさとの菩提寺に眠る

 

 天正六年(1578)三月九日、上杉謙信は春日山城の厠で倒れました。治療や祈祷などあらゆる手が尽くされましたが、謙信の意識が戻ることはなく、三月十三日の午後二時ごろ亡くなったと伝えられています。関東遠征を目の前に控え、後継者も決めぬまま、四十九歳の生涯を閉じました。.

 

 林泉寺の惣門を入ると本堂の左側に謙信公の御墓へと向かう石段が続いています。上杉家の米沢移封に伴い、林泉寺も米沢へと移りました。

 

 現在の林泉寺は堀氏により再建されたものですが、ふるさと春日山城の麓、天室光育禅師より薫陶を受けたこの地に、謙信公の供養塔が建っています。

 

所在地 新潟県上越市中門前1丁目1-1
アクセス 北陸自動車道「上越」ICより15分
JR信越本線「春日山」駅より徒歩30分、北陸本線「直江津」駅よりバス
林泉寺 025-524-5846
一口メモ 駐車場有り(50台)

 

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―天下の名城春日山城、そのスケールの大きさを体感

 

 春日山城は大変規模の大きな山城でした。城域は春日山全山に及んでおり、面積は500ヘクタールを越えます。主に父為景と謙信の代に大きく改修され、今のような姿になったと言われています。

 

 謙信が春日山城を居城とした三十年の間は遠征の連続でした。謙信は拠点である春日山城の防御を固めるため、大規模な普請を行う必要があったのです。春日山城下の大豆から中屋敷にかけて約1,200メートルにわたって監物堀と監物土居(土塁)がありました。これは堀秀治の時代に掘られたものですが、中世の山城から近世の城への変遷を示す貴重な遺構です。

 

 春日山城史跡広場は春日山城跡の北東の端に位置する楼門地区の遺構を、発掘調査に基づいて復元、整備したものです。監物堀、監物土居、番小屋などが復元され、春日山城のスケールの大きさを実感することができます。

 

 また毎年8月に開かれる謙信公祭では、この広場で川中島合戦の様子が再現されています。

 

所在地 新潟県上越市大豆334
アクセス 北陸自動車道「上越」ICより10分
JR信越本線「春日山」駅より徒歩30分、北陸本線「直江津」駅よりバス
春日山城跡ものがたり館 025-544-3728

 

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―謙信は川中島から善光寺如来尊を携えてこの地に安置

 

 弘治元年、第2次川中島合戦のおり、善光寺のあった場所(戦国時代は今の仲見世通りにありました)が戦乱の舞台となりました。

 

 謙信は信玄の侵略から守るために、本尊の善光寺如来尊を越後に持ち帰り、府中に善光寺を建立したと伝えられています。

 

 現在十念寺(じゅうねんじ)のあるあたりはかつて善光寺浜と呼ばれていました。

 

 十念寺の境内には善光寺浜から出土したという鎌倉時代や室町時代の石塔が数多くあり、そのうちの二基の五輪塔は鎌倉時代後期のもので、上越市の文化財に指定されています。謙信の携えてきた本尊は現在米沢市御廟1丁目の法音寺に安置されており、謙信の信仰篤かったといわれる「泥足毘沙門天像」も所蔵されています。

 

所在地 新潟県上越市五智2丁目11-6
アクセス 北陸自動車道「上越」ICより車10分
JR信越本線、北陸本線「直江津」駅より徒歩10分
十念寺 025-543-4872

 

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―上杉謙信の生涯を大型画面で学べる施設

 

 春日山城史跡広場にあるものがたり館では、春日山城や上杉謙信の生涯について、大型画面でわかりやすく知ることができます。他には「春日山城絵図」「川中島合戦図屏風」(複製)や発掘調査の出土品などが展示されています。二階には展望室があり、春日山城の本丸を望むことができます。

 

 また発掘調査に基づいて復元された監物堀にはカキツバタが植えられていて、毎年五月ごろに見ごろをむかえます。

 

所在地 新潟県上越市大豆334
アクセス 北陸自動車道「上越」ICより10分
JR信越本線「春日山」駅より徒歩30分、北陸本線「直江津」駅よりバス
春日山城跡ものがたり館 025-544-3728
一口メモ 開館時間 9時から14時30分、入館料 無料
休館日 毎週月曜(祝日の場合は翌日)、祝日の翌日、年末年始

 

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―長い歴史を持つ海上交通の要衝、直江氏のルーツでも

 

 御館の乱後の天正九年、樋口与六兼続は後継ぎの亡くなった直江家の婿となり、直江の名跡を継ぎました。直江氏は、藤原鎌足の孫にあたる京家麻呂の末裔で、直江の庄(上越市直江津地区)を賜りその姓としたと伝えられています。兼続の義父、直江大和守実綱(景綱)は奉行として政務を担当する上杉謙信の重臣でした。

 

 直江津港の港としての歴史は遠く古代にまで遡るとされています。鎌倉時代には海上交通の要衝であったらしく、説教節「さんせう太夫」をもとにした森鴎外の小説「山椒太夫」には、この港が東西の交流の分岐点だったことが描かれています。

 

 謙信にとって直江津港は重要な港でした。舟運によって、新潟県の特産品の「あおそ」を京や摂津に運び、巨利を得ていたのです。

 

 関川河口の西岸には安寿と厨子王供養塔が建っています。また近くの琴平神社の境内には「文月や六日も常の夜には似ず」の松尾芭蕉の句碑があります。

 

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―御館の乱で落城、あたりは火の海になったという

 

 天文二十一年(1552)上杉憲政は小田原の北条氏康に敗れ、謙信を頼って府中へと逃れてきました。御館とは謙信が関東管領上杉憲政のために建てた館のことです。その後、天正六年(1578)謙信が突然死去、養子であった甥の長尾景勝と小田原北条家の七男三郎景虎とが、家督相続をめぐって争いとなりました。景勝は春日山城に、景虎は府中の御館に立てこもり、越後の諸将は二手に分かれ争うことになります。翌天正七年、景勝は御館に猛攻撃をかけます。府中は火の海となり、安国寺、至徳寺などの古刹が焼失、それから一ヶ月余りの攻撃によって御館は落城しました。

 

 御館跡は直江津駅西方1キロメートルの住宅地の中にあります。現在は内郭の一部が公園として整備されています。御館の内郭は東西135メートル、南北150メートルの大きさで、堀を二重に築き、厚い土塁で防御を固めた方形の館です。発掘調査によって、陶磁器片、古銭、鉛弾、武具、べっ甲製のくしなどが出土しました。

 

所在地 新潟県上越市五智1丁目
アクセス 北陸自動車道「上越」ICより車10分
JR信越本線、北陸本線「直江津」駅より徒歩10分
上越市教育委員会 025-526-5111

 

―謙信は天室光育禅師のもと、文武の素養を磨いた

 

 上杉謙信は天文五年(1536)七歳のときに林泉寺に預けられ、七年の間天室光育禅師から厳しい教育を受けました。「節目を守り、非分をしない」謙信の心は、禅師によって培われたと言われています。謙信は生涯にわたり禅師に信頼を置き、行き詰まったときに助言を求めることもありました。

 

 林泉寺は明応六年(1497)謙信の祖父能景により、その父重景の菩提を弔うために建てられた曹洞宗の寺院です。曇英恵応を招いて開山とし、以後は長尾家の菩提寺となりました。

 

 現在の惣門は春日山城の搦手門を移築したと伝えられています。門を入ると、正面に楼門、鐘楼が並び、本堂の右に宝物館、左には墓地があります。慶長三年景勝の会津移封に伴い、林泉寺も移転、後に米沢へと移りました。

 

 現在の寺は、堀氏により再建され、歴代の高田藩主の保護を受けました。宝物館には「上杉謙信画像」、謙信筆による山門額「第一義」、「春日山」、などが展示されています。墓地には、謙信公の御墓、為景公の御墓や川中島合戦供養塔などがあります。

 

所在地 新潟県上越市中門前1丁目1-1
アクセス 北陸自動車道「上越」ICより15分
JR信越本線「春日山」駅より徒歩30分、北陸本線「直江津」駅よりバス
林泉寺 025-524-5846
一口メモ 駐車場有り(50台)

 

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―小川未明の父により創建された上杉謙信を祀る神社

 

 明治三十四年(1901)、前島密らの援助を受けた旧高田藩士小川澄晴によって創建されました。米沢市の上杉神社より分霊され、上杉謙信を祀っています。

 

 春日山神社のある場所は春日山の中腹にあたり、戦国時代にはここに春日山城の政所、老母屋敷がありました。

 

 境内にある春日山神社記念館には、上杉謙信ゆかりの「毘」の旗や、小川澄晴の子で「赤い蝋燭と人魚」で知られる童話作家の小川未明ゆかりの品が展示されています。神明造の社殿は創建当初からのものです。

 

 毎年8月には謙信公祭が開催され、春日山神社境内では武てい式が再現されます。

 

所在地 新潟県上越市大豆1743
アクセス 北陸自動車道「上越」ICより15分
JR信越本線「春日山」駅より徒歩30分で登り口、北陸本線「直江津」駅よりバス
春日山神社 025-525-4614
一口メモ 駐車場 4台(無料)

 

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―義に生きた戦国武将、上杉謙信の拠点、巨大山城

 

 上杉謙信は天文十七年(1548)から天正六年(1578)に死去するまでの三十年余り、春日山城を居城としました。関東、信濃、北陸へと出陣、二度の上洛を果たしましたが、戦乱の世であっても一度も領土拡大のための出兵は無かったと言います。

 

 謙信の没後、二人の養子であった甥の長尾景虎と小田原北条家の七男三郎景虎の相続をめぐる争い、御館の乱が勃発します。武田、北条氏をも巻き込み越後を二分した争いへと発展していきました。二年余り続いた戦乱は景勝の勝利により幕を閉じ、その後慶長三年(1598)豊臣秀吉の命によって、会津移封となるまで、上杉景勝は、ここ春日山城を居城としました。動乱の世にあって景勝を支えたのは、二十一歳という若さで家老職に就いた直江兼続でした。

 

 春日山城は中世の典型的な巨大山城で、国の史跡に指定されています。標高180メートル、東西は約2キロ、南北約1.3キロメートルに及んでおり、遺構は曲輪、土塁、堀、門、大井戸、道路とよく残っています。山頂の天守台跡、本丸北の毘沙門堂、護摩堂跡、諏訪堂跡、そして二の丸跡、三の丸跡、米蔵跡などがあります。慶長三年堀氏が入りましたが、その後、福島城(直江津港近く)を築き移ったため、城としての役目を終えました。

 

所在地 新潟県上越市大豆
アクセス 北陸自動車道「上越」ICより15分
JR信越本線「春日山」駅より徒歩30分で登り口、北陸本線「直江津」駅よりバス
上越市教育委員会 025-526-5111
一口メモ 駐車場有り

 

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