史跡ガイド

福島県

―完成すれば奥州一の城郭を持った幻の城

 

 慶長三年(1598)会津に入った上杉景勝は、黒川(若松)城の守りに不安があったため、神指原に新たに城を築くよう直江兼続に命じます。

 

 兼続は自ら普請奉行となり、同五年二月に工事に取りかかりました。小奉行には、大国実頼・甘粕景綱・山田喜右衛門らが任ぜられ、12万人を動員して、突貫工事で行われました。

 

 しかしこの築城工事が徳川家康に上杉討伐の口実を与えることになり、工事は中止されます。家康は上杉討伐へと進軍し、石田三成が挙兵したため、関が原の合戦となりました。合戦に敗れた西軍についた上杉家は、米沢へと減封になり、神指城は破却されました。


 神指城の本丸は東西180メートル、南北220メートルの方形で、高石垣と幅40メートルの水濠をめぐらせた輪郭式の平城です。当時としては最先端の縄張で、鉄砲による攻撃を意識した構えになっていました。面積は鶴ヶ城の二倍あり、完成すれば奥州一の巨大城郭となった城です。

 

 現在では、二の丸の一部と本丸跡をわずかに残すのみです。二の丸には国の天然記念物・樹齢600年の大欅が聳えています。

 

所在地 福島県会津若松市神指町
アクセス 磐越自動車道「会津若松」ICより車5分
JR磐越西線「会津若松」駅よりバス「黒川」下車・徒歩15分
会津若松観光課 0242-39-1251

 

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―戊辰戦争の悲話でも知られる、奥州支配の要の城

 

 天正十八年(1590)小田原北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は、伊達政宗が明け渡した会津黒川(若松)城に入り、奥州仕置き(北条攻めの論功行賞)を行いました。黒川城には蒲生氏郷を四十二万石で封じました。

 

 文禄四年(1595)氏郷が病死すると、蒲生家は重臣同士のいがみ合いで混乱。奥州の伊達・関東の徳川に対して要であった会津に、秀吉は慶長三年(1598)上杉景勝を百二十万石で入城させます。景勝はさっそく領内の重要拠点に腹心を配置して体制を固めました。

 

 若松城は別名を鶴ヶ城・黒川城とも呼ばれる平山城で、国の史跡に指定されています。


 至徳元年(1384)芦名直盛によって築城され、その後芦名氏の居城でしたが、天正十七年伊達政宗によって滅ぼされました。蒲生氏は城の名を鶴ヶ城と改め、近世城郭へと改修、城下町も若松と改称し整備しました。関が原の戦い後は、蒲生氏・加藤氏・保科氏・松平氏の居城となり、慶応四年(1868)の戊辰戦争では、一ヶ月の篭城に耐えましたが、降伏し開城となりました。

 

 本丸は現在「鶴ヶ城博物館」として資料が展示・公開され、城の周りは桜の美しい公園として、市民に広く親しまれています。

 

所在地 福島県会津若松市追手町1-1
アクセス 磐越自動車道「会津若松」ICより車20分
JR磐越西線「会津若松」駅よりバス15分
鶴ヶ城博物館 0242-27-4005
一口メモ 開館時間 8時30分から17時(入城締め切り 16時30分)
駐車場 有り(有料)

 

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