史跡ガイド

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―軍神謙信が1年がかりで開城した強固な城

 

 七尾城は能登守畠山氏の居城として築かれました。険しい山岳部を巧みに利用した難攻不落と言われた山城です。天正5年(1577)に上杉謙信に包囲され、一年に渡って持ちこたえましたが、遊佐続光の内応により開城しました。七尾城主畠山義続の次子である上条政繁は人質として引き取られ、養子となり上条上杉氏を相続しました。景勝の妹を室として御館の乱では景勝を助けますが、その後、信濃の統治をめぐって兼続と対立し、越後を出奔しました。

 

 七尾城は織田信長によって領された後、前田利家が入りますが、山城の時代は終わり、利政の時に廃城となりました。

 

所在地 石川県七尾市古屋敷町夕部

七尾市役所 0767-53-1111

 

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―御館の乱の恩賞のもつれから新発田重家の乱は起こった

 

 鎌倉時代に佐々木盛綱が加地庄の地頭として加地氏を名乗り、加池城を築きました。新発田氏は加地氏の支族にあたり、室町時代に新発田城を築城します。新発田長敦・重家兄弟は謙信・景勝に仕え揚北衆(阿賀野川以北の豪族)の重鎮として勢力を誇っていました。天正六年(1578)の御館の乱では、武田氏との講和や春日山城の守備など大変活躍したにもかかわらず、恩賞が得られませんでした。天正九年、新発田重家は織田信長と通じ景勝に背きます。七年間続いた争乱は天正十五年の新発田城落城と重家の自刃により幕を閉じました。慶長三年(1598)に溝口秀勝が城主となり、旧城跡に平城を築きました。

 

 現在は本丸表門と旧二の丸隅櫓が国の重要文化財に指定されています。平成十六年(2004)、全国唯一の三匹の鯱を配した独特の三階櫓と辰巳櫓が、忠実に復元されました。

 

 

 

所在地 新潟県新発田市大手町6-4
アクセス 日本海東北道「新発田聖籠」ICより車10分
JR白新線・羽越線「新発田」駅より徒歩20分
新発田市役所生涯学習課 0254-22-3715
一口メモ 入場料(無料)、開門期間(4月から11月)

 

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―羽茂城の陥落によって上杉景勝は佐渡を平定した

 

 豊臣秀吉より佐渡征伐を命じられた上杉景勝は、天正十七年六月十二日出雲崎から千艘余りの船で佐渡に向けて出発し、沢根に上陸し河原田城を攻略しました。次いで十六日羽茂城を攻め、一日にして攻略したと伝えられています。城主の本間高季は弟の赤泊城主・本間高頼とともに逃亡しますが、捕えられ斬首されました。四百年続いた本間氏は滅亡し、景勝は佐渡平定を果たしました。

 景勝から佐渡の支配を任された直江兼続は、佐渡各地に与板衆・上田衆を代官として配置し、所領を与えたとされています。

 

 羽茂城は羽茂川下流右岸の標高82メートルの城山に位置し、新潟県の史跡に指定されています。

 

 戦国時代に南佐渡最大の河港と一帯を支配した羽茂本間氏の居城で、規模の大きな山城です。複雑な地形を利用して大改修を行い、防備を固めました。山頂には殿屋敷跡、東北・西北・南に城の跡、元屋敷・奥方屋敷跡、馬場・大手門跡などが残っています。

 

所在地 新潟県佐渡市羽茂本郷
アクセス 両津港よりバス、小木港より車15分
佐渡市役所羽茂支所 産業振興課観光商工係

 

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―佐渡守護代・本間氏の一族、河原田本間氏の居城

 

 天正十四年(1586)豊臣秀吉より佐渡征伐を命じられた上杉景勝は、同十七年六月十二日出雲崎から千艘余りの船で佐渡に向けて出発しました。沢根城主の本間左馬助の協力を得て沢根に上陸した上杉軍は、本間高統の河原田城を攻撃します。このとき城主の本間佐渡守高統は島内の兵を集め応戦しましたが、ついに城に火を放ち自刃したといいます。景勝は次いで本間高季の羽茂城を攻略し、本間氏は滅亡します。佐渡を平定した景勝は、家臣の青柳隼人・黒金尚信らを代官として配置しました。

 

 河原田城は別名を東福寺城・獅子ヶ城ともいい、北佐渡を支配した河原田本間氏の居城でした。佐和田町を望む小高い台地に位置し、周囲を石田川や水田に囲まれた天然の要害です。

 

 現在は県立佐渡高等学校の敷地となり、遺構はほとんど失われてしまいました。

 

所在地 新潟県佐渡市石田
アクセス 両津港より、小木港より
佐渡市役所 0259-63-3111

 

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―越後・越中国境の難所・親不知にそびえる要害の城

 

 天正十三年(1585)八月、豊臣秀吉は越中の佐々成政攻めの軍を発しました。迎え撃つ成政はあまりの兵力の差に富山城を無血開城します。天下統一を目指す秀吉は、越後の上杉景勝に会見を申し入れました。それを受けて景勝は直江兼続を従えて、糸魚川の落水城で秀吉と会見しました。兼続はその後、深く影響を及ぼし合う石田三成と出会います。

 

 落水城は別名を勝山城(かつやまじょう)・墜水城ともいい、越中との国境・親不知の標高328メートルの山上に築かれた堅固な山城です。

 

 本丸跡は幅25メートル・長さ30メートル、郭・空堀・井戸などの遺構が残っています。北陸道を眼下に監視できるため、根知城・不動山城とともに春日山城支城群の一つとして、越中との国境警備と敵の侵攻を阻止するという重大な役割を担っていました。

 

所在地 新潟県糸魚川市青海
アクセス 北陸自動車道「親不知」ICより車
JR北陸本線「親不知」より
糸魚川市教育委員会文化振興課 025-552-1511

 

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―信越国境の要害には御館の乱にまつわる落城悲話

 

 天正六年(1578)、謙信の突然の死によって二人の養子による家督争い(御館の乱)が起こります。

 

 甥の景勝は春日山城実城を占拠、一方小田原の北条氏康の七男三郎景虎は、妻子とともに府中の御館に立てこもりました。翌年景勝は猛攻撃をかけて御館を攻略、このとき景虎の妻(景勝の姉)は自害したと伝えられています。関東管領上杉憲政は景虎の長男の道満丸を連れ、和議を求め春日山城へと向かいましたが、途中の四ツ屋砦で命を落としました。

 

 御館を逃れた景虎は小田原へ逃亡しようと途中の鮫ヶ尾城に立ち寄ります。しかし城主堀江宗親の裏切りに会い断念、鮫ヶ尾城で自刃しました。享年二十六歳でした。

 

 鮫ヶ尾城は、標高183メートル、本丸跡からは高田平野、日本海、妙高連峰が一望できます。前には関川と矢代川が流れ、後ろは険しい南葉連峰が迫り、春日山城の支城として信越国境の要害であったことがわかります。山頂を中心に規模の大きな郭や空堀、直径3メートルの大井戸があります。米蔵跡からは現在も焼けた米が出土します。これは落城の際の戦火によるものだと言われています。城下の勝福寺には「上杉三郎景虎供養塔」、「上杉景虎石像」があります。

 

所在地 新潟県妙高市宮内・雪森・籠町・乙吉
アクセス

上信越自動車道「中郷」、「上越高田」ICより車15分
新井スマートICより車10分
JR信越本線「新井」駅よりバス

妙高市教育委員会 0255-72-2270、妙高市観光協会 0255-86-3911

 

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