城
―上杉景勝と直江兼続主従の深い絆は、ここから始まった
坂戸城跡は南魚沼市坂戸にあります。戦国時代は上田長尾家の居城でした。のちに直江山城守兼続となる樋口与六は、永禄3年(1560)、魚沼郡の政治経済の中心であった坂戸城下で生まれました。当時の城主は長尾政景で、謙信の姉、仙桃院と政景とのあいだに生まれたのが景勝でした。景勝と兼続は深い信頼関係を築き、ともに激動の時代を生きていくことになります。
坂戸城は新潟県でも屈指の、坂戸山を中心に山麓一帯を含む中世の山城です。山頂には実城、山麓には平時の住居跡、他には曲輪、石垣、土塁、堀切などの遺構が残っており、国の指定史跡となっています。
| 所在地 | 新潟県南魚沼市坂戸 |
| アクセス | 関越自動車道「六日町」ICより車10分 JR上越線「六日町」駅より登山口まで徒歩30分 |
| 問 | 南魚沼市観光協会 025-772-7171 |
| 一口メモ | 駐車場 60台(銭淵公園) |
坂戸城絵図(鈴木牧之記念館蔵)
―上杉景勝は長尾政景と仙桃院の嫡子としてここに誕生
南魚沼市樺野沢にあります。上杉景勝は弘治元年(1555)樺沢城で生まれたと言われています。
当時南魚沼のほとんどは、上田庄と呼ばれていました。南魚沼市樺野沢に南北朝時代から戦国時代にかけて城と城下町があり、「御館の乱」の際には景虎の救援に駆けつけた小田原北条氏の攻撃を受け、樺沢城は攻略されました。
城は緩やかな山に設けられた中世の山城です。城主館跡は、一段高台に築かれていて、景勝の母であった仙桃院のお花畑もありました。周辺には元屋敷、中屋敷、下屋敷があり、少し下ると上田衆屋敷跡、そして古町、桜町と城下町が続いています。
| 所在地 | 新潟県南魚沼市樺野沢 |
| アクセス | 関越自動車道「塩沢石打」ICより車10分 JR上越新幹線「越後湯沢」駅より車20分 JR上越線「上越国際スキー場前」駅より徒歩3分 |
| 問 | 南魚沼市教育委員会 025-777-4671 |
| 一口メモ | 駐車場20台 |
―上杉景勝、直江兼続が幼い日ともに過ごした城
のちの直江山城守兼続、樋口与六は永禄3年(1560)坂戸城下で生まれました。6歳のときに景勝に小姓として仕え、16歳で景勝に従って春日山城に上がるまでここで過ごしました。
山城の多くは平時に行政などを行う場所として麓に小城、館を築きました。
城主館は長尾房景の時代に築かれましたが、今の遺構は堀直寄が改修したものということです。南北に120メートル、東西に80メートルの長方形をしており土塁や石垣をめぐらせてあります。また、南北に門の跡があります。
| 所在地 | 新潟県南魚沼市坂戸 |
| アクセス | 関越自動車道「六日町」ICより車10分 JR上越線「六日町」駅より登山口まで徒歩30分 |
| 問 | 南魚沼市観光協会 025-772-7171 |
―御館の乱では小田原北条氏に攻略された城
南魚沼市樺野沢にあります。上杉景勝は弘治元年(1555)この城で生まれたと言われており、城の中腹には景勝のへその緒を収めたという胞衣(えな)塚が安置されています。
樺沢城の築城時期は定かではありませんが、上越から関東へと通ずる三国街道、清水街道の分岐点にあたっており、戦国時代は坂戸城の支城としての役割を果たしました。上杉謙信の関東遠征時には、宿城でもありました。
本丸跡の標高は300メートルで中世の山城です。遺構がよく残っており、鉢巻状石垣の一部なども見られます。中腹より下は三重四重の空堀土塁で防御していたという堅牢な城でした。
謙信亡き後の御館の乱では、景虎方についた北条氏と景勝方との主戦場となりました。慶長3年の上杉氏の会津移封にともない廃城となり城の幕を閉じました。
現在は新潟県の指定文化財となり、遊歩道や案内標識などが整備されています。
| 所在地 | 新潟県南魚沼市樺野沢 |
| アクセス | 関越自動車道「塩沢石打」ICより車10分 JR上越新幹線「越後湯沢」駅より車20分 JR上越線「上越国際スキー場前」駅より徒歩3分 |
| 問 | 南魚沼市教育委員会 025-777-4671 |
| 一口メモ | 駐車場:20台 |
―三国街道と魚野川舟運を監視する重要な拠点の城
標高300メートルの山城で、応永28年(1421)に大関氏によって築城されたとされています。
戦国時代には清水藤左衛門らの居城でした。上杉景勝と三郎景虎が家督を争った天正6年(1578)の御館の乱の際には、上杉景勝方につきました。景虎の援軍・北条軍に攻撃されますが、撃退し景勝より感状を賜っています。
三国街道と魚野川舟運を監視する重要な拠点であったため、戦国時代には上杉氏の出城としての役割を担いました。曲輪・土塁・空堀が残り、山頂には薬師如来の祠があります。代々の城主は領民の健康を祈願して、薬師如来を信仰し、麓の千住院の住職に薬師如来の守護を任せたと伝わっています。
| 所在地 | 新潟県南魚沼市浦佐 |
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アクセス |
関越自動車道「小出」ICより車10分 関越自動車道「大和PA」スマートIC(ETCのみ)より車5分 |
| 問 | 南魚沼市観光協会・大和案内所 025-777-3054 |
―兵六万を収容できたと伝わる坂戸城の支城
築城時期は天文年間(1532~55)と考えられています。南北朝時代の後期にこのあたりを中心にして南朝方と北朝が戦った際の根拠地であったと考えられています。その後上杉兼顕が越後守護となり、家臣の長尾氏に国境の上田庄を守らせると、坂戸城の支城となりました。
標高が321メートルある堅固な山城で、山頂からは上越国境の山々や魚沼盆地が一望できます。福島大炊介政為の居城とされており、城郭の大きさから、六万騎城と名がついたと推測されています。曲輪・土塁・空堀などが残っています。慶長3年(1598)上杉景勝の会津への移封により、廃城となりました。
現在は山全体がカタクリの群生地となっており、1周約1時間のトレッキングコースがあり、秋には紅葉が楽しめます。
| 所在地 | 新潟県南魚沼市麓 |
| アクセス | 関越自動車道「六日町」ICより車15分 JR上越線「五日町」駅より徒歩30分 |
| 問 | 南魚沼市教育委員会 025-777-4671、南魚沼市観光協会 025-772-7171 |
| 一口メモ | 西側麓にある地蔵尊に登山口あり |
―魚野川とその分流に守られた堅固な防備の天然の要害
上田庄は古くから越後と関東を結ぶ三国街道上にあり、三国峠を越えた越後側の入り口であったことから、軍事上非常に重要な拠点でした。南北朝期に新田氏によって築かれた坂戸城は、戦国時代には越後守護代長尾氏の一族・上田長尾氏の居城となり、長尾氏は城を大規模に改修します。坂戸山全山は要塞化され、城の東には五十沢川・三国川、西側には魚野川が流れる天然の要害として堅固な防備を誇りました。
当時は魚野川の分流が羽黒鼻の先端から銭淵まで、坂戸山裾近くを急流となって流れていました。廃城後、埋田・埋田堀と呼ばれてきた泥田も含めて、城の正面を防備する第二の防御線の内堀として重要な役割を担っていました。
| 所在地 | 新潟県南魚沼市坂戸 |
| アクセス | 関越自動車道「六日町」ICより車10分 JR上越線「六日町」駅より登山口まで徒歩30分 |
| 問 | 南魚沼市観光協会 025-772-7171 |
| 一口メモ | 駐車場 60台 |
―関東への主要路であった清水峠を監視する山城
永禄年間(1558~70)に築かれたとされています。
上杉謙信が関東に遠征した際には、長尾伊賀守に守護を命じました。
謙信の死後起こった天正6年(1578)の御館の乱では、景虎の援軍・北条軍を阻止するために、景勝は坂戸城将の深沢刑部・樋口主水(兼続の一族)らに命じて荒戸城・直路城の防備を固めています。
直路城は別名を清水城ともいい、標高830メートルの山城です。越後と関東を結ぶ主要路の清水峠を望む場所に位置し、監視する目的で築かれました。曲輪・土塁・空堀などが残っています。
当時関東への主要な道路は三国峠・清水峠の二つがありましたが、清水峠の方が道は急峻ですが、日数を短縮できたため、直路と名がついたとされています。
慶長3年(1598)の上杉景勝の会津移封により廃城となりました。
| 所在地 | 新潟県南魚沼市清水 |
| アクセス | 国道291号線・清水の終点から登山口に至る |
―軍神謙信が1年がかりで開城した強固な城
七尾城は能登守畠山氏の居城として築かれました。険しい山岳部を巧みに利用した難攻不落と言われた山城です。天正5年(1577)に上杉謙信に包囲され、一年に渡って持ちこたえましたが、遊佐続光の内応により開城しました。七尾城主畠山義続の次子である上条政繁は人質として引き取られ、養子となり上条上杉氏を相続しました。景勝の妹を室として御館の乱では景勝を助けますが、その後、信濃の統治をめぐって兼続と対立し、越後を出奔しました。
七尾城は織田信長によって領された後、前田利家が入りますが、山城の時代は終わり、利政の時に廃城となりました。
| 所在地 | 石川県七尾市古屋敷町夕部 |
| 問 |
七尾市役所 0767-53-1111 |
―景勝が陣を敷くも無念の撤退を強いられた
築城は天文23年(1545)。城主は長尾小四郎景直と伝えられています。天神山城は越中において、越後上杉方の重要な中継地点でした。天正10年(1582)に魚津城の戦いの折、上杉景勝が後詰として陣を敷いた場所です。天神山は2本の川に挟まれた台地状の独立丘陵で、山頂には大きな削平地が2ヶ所見られ、土塁や堅堀、空堀も数多くあります。 天神山は元々、松尾山と呼ばれていましたが、室町将軍足利義材が都の乱を逃れて小川寺に身を寄せました。その折に守護神である菅公像(天神様)を祀ったことから天神山と改めたと言われています。
| 所在地 | 魚津市小川寺字天神山(光学坊) |
| アクセス | 北陸自動車道魚津ICより車で15分 |
| 問 |
魚津市教育委員会 0765-23-1045 |
―悲運の城―百余の武将が自らの命と共に
魚津城は松倉城の支城として室町時代に築かれました。戦国の世では、越後上杉方の越中の拠点となり、謙信は信頼を寄せていた河田長親を城主に配しました。魚津城は天正10年(1582)に北上してきた織田信長方の武将柴田勝家の率いる4万の大軍に包囲されました。武田勝頼が敗れたことで織田軍の攻撃は一斉に上杉家に向けられ、景勝と兼続は上杉家滅亡の危機にさらされます。景勝は魚津城から援軍を求められ、天神山城まで出陣しましたが、信濃や上野に駐屯している織田勢にけん制されて、春日城に戻らなければなりませんでした。これにより魚津城は孤立無援になりました。
籠城すること数ヶ月、柴田勝家、前田利家らの攻撃を受けて、中条景泰・竹俣慶綱ら百余の城将が自害し、魚津城は落城しました。しかし、落城の前日に織田信長が本能寺の変に倒れ、この知らせを受けた柴田勝家は京に向けて退きます。明智光秀の謀反により、景勝は上杉家滅亡の窮地から救われました。
| 所在地 | 魚津市本町1丁目大町小学校 |
| アクセス | 北陸自動車道魚津ICより車で10分 |
| 問 |
魚津市教育委員会 0765-23-1045 |
―大国実頼(直江兼続の弟)が相続し城主となった城
永禄五年(1562)、上田長尾氏の家臣樋口兼豊の次男として生まれた与七(直江兼続の弟)は、天正十年(1582)に小国城主小国重頼の養子となり家督を相続。景勝の命により姓を大国と改めて大国実頼と名乗りました。実頼は同十四年八月の新発田重家討伐に参陣、豊臣秀吉の聚楽第新築の際には、上杉家の使者を勤めています。慶長三年(1598)の上杉氏の会津移封に従い、南会津の南山城主となりました。同六年には山形の高畑城主となり七千石を知行しました。
小国城があったとされる一帯は現在長岡市おぐに森林公園となっています。小国城は標高251メートルの小城山に築かれ、平時の館は小国沢川対岸の真福寺であったと伝えられています。
| 所在地 | 新潟県長岡市小国町上岩田208 |
| アクセス | JR信越本線「塚山」駅より |
| 問 | 長岡市観光課 0258-39-2221 長岡市おぐに森林公園 0258-95-2576 |
森林浴
バーベキューも楽しめます。
―御館の乱の恩賞のもつれから新発田重家の乱は起こった
鎌倉時代に佐々木盛綱が加地庄の地頭として加地氏を名乗り、加池城を築きました。新発田氏は加地氏の支族にあたり、室町時代に新発田城を築城します。新発田長敦・重家兄弟は謙信・景勝に仕え揚北衆(阿賀野川以北の豪族)の重鎮として勢力を誇っていました。天正六年(1578)の御館の乱では、武田氏との講和や春日山城の守備など大変活躍したにもかかわらず、恩賞が得られませんでした。天正九年、新発田重家は織田信長と通じ景勝に背きます。七年間続いた争乱は天正十五年の新発田城落城と重家の自刃により幕を閉じました。慶長三年(1598)に溝口秀勝が城主となり、旧城跡に平城を築きました。
現在は本丸表門と旧二の丸隅櫓が国の重要文化財に指定されています。平成十六年(2004)、全国唯一の三匹の鯱を配した独特の三階櫓と辰巳櫓が、忠実に復元されました。
| 所在地 | 新潟県新発田市大手町6-4 |
| アクセス | 日本海東北道「新発田聖籠」ICより車10分 JR白新線・羽越線「新発田」駅より徒歩20分 |
| 問 | 新発田市役所生涯学習課 0254-22-3715 |
| 一口メモ | 入場料(無料)、開門期間(4月から11月) |
―御館の乱で小田原北条軍を阻止するために築城
天正六年(1578)に起こった御館の乱の際、景勝は景虎救援の小田原北条軍を阻止するため、三国街道を見下ろす芝原峠に荒戸城を築きました。景勝の命を受けた坂戸城将の深沢刑部少輔利重・樋口主水助兼久(兼続の一族)らは、坂戸・荒戸の二城に兵力を結集し防備を固めます。しかし、荒戸城・樺沢城は北条軍によって攻略され、北条軍は坂戸城の景勝軍と対峙しました。冬を前に関東への退路を経たれることを恐れた北条軍は、河田重親・北条高広らを樺沢城に残し撤退しました。
翌天正七年三月、関東の援軍が来ない前に景勝軍は荒戸城を奪還しました。それ以後は三国街道監視のために城代が置かれましたが、慶長三年(1598)、上杉景勝の会津移封により廃城となりました。荒戸城は別名を荒砥城とも言い、三国峠の旧道から荒戸城へと分かれる道が通じています。三方を土塁で固めた本丸跡は標高789メートル、北には二の曲輪、西に三の曲輪が配されています。
規模は小さいながらも曲輪・竪堀・土塁などの遺構が残る堅固な山城で、新潟県の史跡に指定されています。
| 所在地 | 新潟県南魚沼郡湯沢町三俣 |
| アクセス | 関越自動車道「湯沢」ICより車10分 JR上越線・上越新幹線「越後湯沢」駅よりバス |
| 問 | 湯沢町観光協会 025-785-5505 |
―関が原の合戦に伴った「越後一揆」の舞台となった城
築城時期は不明ですが、上田長尾氏が越後平野出口の防備のために築いたと考えられています。天正六年(1578)の御館の乱では景勝方につき、栃尾城の本庄秀綱らに攻められましたが撃退しています。慶長三年(1598)、春日山城に入った堀秀治は下倉山城に家臣の小倉政熙を配しました。同五年に徳川家康が会津討伐へと進軍すると、上杉景勝は石田三成と通じ徳川方の堀秀治を倒そうと一揆を煽動します。八月一日、上杉氏の旧臣や遺民ら一揆軍が城を包囲、城主の小倉政熙は討ち死にし城は落城しました。しかし翌日には下倉山城は坂戸城主堀直竒によって奪還され、一揆軍は三条城の堀直次らに鎮圧されました。慶長十五年、堀直竒の飯山城移封により廃城となりました。
魚野川と破間川が合流する地点の北岸にある堅固な山城で、下を関越自動車道が通っています。遺構は曲輪・堀切・土塁・井戸跡・池跡が残っています。
下倉山城は新潟県の史跡に指定されていますが、地震後の影響もありますので事前にお問い合わせの上、お出かけください。
| 所在地 | 新潟県魚沼市下倉 |
| アクセス | 関越自動車道「小出」IC、「堀之内」ICより車5分 JR上越線、只見線「小出」駅より徒歩10分 |
| 問 | 魚沼市観光協会 025-792-7300 |
―直峰城を征したことが御館の乱の勝利へと繋がった
築城時期は不明ですが、南北朝時代には南朝方の風間氏の居城でした。天正六年(1578)の御館の乱では、景虎方についた城主の長尾景明は景勝の策略により自刃。
要衝の直峰城(春日山城から上田の庄・関東へと抜ける最短ルートの第一中継城)を押さえたことで景勝は戦略上、非常に有利になりました。景勝は戦功のあった樋口兼豊(直江兼続の父)を城代に任じ、この地域を統制させています。慶長三年(1598)、堀秀治の家臣堀光親が直峰城に入りましたが、慶長十五年の堀氏の改易により廃城となりました。
直峰城は標高344メートルの中世の典型的な山城で新潟県の史跡に指定されています。一の曲輪跡からは日本海・頚城平野・春日山・米山・東頚城の山々が一望でき交通の要衝であったことがうかがえます。樹齢八百年の大欅や大規模な空堀・堅堀・曲輪跡・金明水・食料蔵や武器蔵の跡・百間馬場・上杉軍道の石畳などが残っており、戦国時代の面影を偲ぶことができます。
| 所在地 | 新潟県上越市安塚区安塚 |
| アクセス | 北陸自動車道「上越」・「柿崎」ICより車30分 JR信越本線・北陸本線「直江津」駅よりバス |
| 問 | 上越市教育委員会 025-526-5111 |
―碓氷峠を押える北条氏の守りの要、壮大な山城
天正十八年(1590)三月、豊臣秀吉はついに小田原征伐の軍を起こします。春日山城を出発した上杉景勝は、途中前田利家・真田昌幸らと合流し碓氷峠を越えて上州へと入りました。北条方の守りの要であった松井田城には、大道寺政繁が二千の兵とともに立て篭もり持久戦になりましたが、四月十九日政繁は篭城を断念し城を明け渡します。このとき直江兼続は敵将である政繁のことを礼節を持って遇したといいます。
松井田城は碓氷川と九十九川に挟まれた標高250~410メートルの山の尾根上に築かれた壮大な戦国時代の山城です。城域は東西約1キロ・南北1.5キロに及び、曲輪群を念入りに堀切で仕切り防備を固めています。
永禄年間の初頭(1558~60)頃、安中忠政が武田氏の侵攻に備えて築城したとされています。本能寺の変後は北条氏の臣・大道寺政繁が入り、西城を造営して大改修しました。小田原攻めの落城によって廃城となりましたが、遺構はほぼ完全に残っています。
| 所在地 | 群馬県安中市松井田町新堀 |
| アクセス | 国道18号線沿いに登山口 JR信越本線「西松井田」駅より徒歩30分 |
| 一口メモ | 登山口に駐車場あり(3台) 本丸まで徒歩30分 |
―二度にわたり徳川の大軍を蹴散らした真田昌幸の名城
天正十年(1582)三月に武田氏が滅亡し、六月に信長が死去すると、真田昌幸は沼田城を奪還し旧領を回復しましたが、北条氏の新たな進行に対処するために上田城を築きます。
上田城は別名を尼ヶ淵城ともいい、上田盆地の中央に位置し、周囲を千曲川とその分流・尼ヶ淵に挟まれた要害の地にあった梯郭式の平城です。天正十一年に真田昌幸によって築城されました。上田城は天正十三年と慶長五年(1600)の二度にわたり徳川の大軍の攻略を退け、実践向け城つくりに優れた昌幸の名を天下に知らしめた歴戦の城です。関が原の合戦後、昌幸・幸村父子が紀州九度山に配流になると信之が入城しますが、松代へと転封となりました。その後は仙石氏・松平氏と続き明治維新を迎えました。
遺構は曲輪・土塁・石垣などが残り、現存する本丸の3棟の櫓は長野県の文化財に指定されています。
現在は東虎口櫓門と袖塀が復元され、桜の美しい城跡公園となっています。
| 所在地 | 長野県上田市大手 |
| アクセス | 上信越自動車道「上田菅平」ICより車10分 JR長野新幹線・しなの鉄道「上田」駅より徒歩10分 |
| 問 | 上田市立博物館(上田城跡公園) 0268-22-1274 上田市商工観光部観光課 0268-22-4100 |
―北信濃支配の中心として歴史に翻弄された城
永禄四年(1561)の第4次川中島合戦では、武田信玄が布陣した城として有名です。
海津城は別名を松代城ともいい、川中島地方を支配するための布石として武田氏により築かれ、永禄三年頃にほぼ完成したとされています。
信玄は善光寺平を制圧すると、寵臣・高坂弾正忠昌信を配置し北信濃を統治させました。天正十年(1582)に武田氏が滅亡すると、織田信長の家臣・森長可の居城となりますが、三ヵ月後の本能寺の変により放棄され、その後は上杉景勝の支配下に置かれます。景勝の会津移封後は幾度も城主が代わりましたが、元和八年(1622)に真田信之が松代藩の初代藩主となり幕末まで続きました。
海津城は田丸直昌の時代に土塁を石塁に改修、本丸の石塁は約10メートル四方、4隅には櫓があり、西北の隅には二重櫓の天守台があったといいます。明治維新のおりにほとんどが破壊されましたが、現在は本丸正面の太鼓門・北側の北不明門などが復元されています。
| 所在地 | 長野県長野市松代町 |
| アクセス | 上信越自動車道「長野」ICより車10分 長野電鉄・屋代線「松代」駅より徒歩5分 |
| 問 | 真田宝物館 026-278-2801 |
| 一口メモ | 駐車場 70台(無料) |
―反徳川勢力を抑えるための天下普請で築城された城
慶長十九年(1614)、徳川幕府は上杉家・伊達家・前田家などの諸大名に高田城の築城という大きな普請役を課しました。反徳川勢力抑止のための「天下普請」でした。総奉行は伊達政宗が勤め、上杉家からも二名を奉行として高田に派遣。直江兼続も自ら高田へ足を運び指揮に当たっています。越後を後にしてから十六年の歳月が経っていました。普請が終わると家康は諸大名に大坂攻めの陣触れを発します。
高田城は家康の六男・松平忠輝によって築かれ、高田平野の中央、関川と矢代川の合流点に位置しています。
石垣を使わず、堀と土塁による平城で三重櫓を天守閣の代わりとしました。酒井氏・松平氏・稲葉氏・榊原氏が城主となりましたが、明治維新後、廃藩置県により廃城となりました。その後、陸軍の駐屯地となったため遺構は失われ、現在では本丸土塁・内堀・外堀の一部が残り、三重櫓が復元されて、高田公園として春の桜・夏のハスで市民に親しまれています。
| 所在地 | 新潟県上越市本城町6-1 |
| アクセス | 北陸自動車道「上越」IC、上信越自動車道「上越高田」ICより車 JR信越本線「高田」駅より徒歩20分 |
| 問 | 高田城三重櫓 025-526-5915 上越市文化振興課 025-526-5111 |
| 一口メモ | 三重櫓 開館時間9時から17時 休館日 月曜日(休日の場合は翌日)、12月29日~1月3日、冬期臨時休館あり 入館料 大人200円・小中高生100円(団体割あり・20人以上) |
―羽茂城の陥落によって上杉景勝は佐渡を平定した
豊臣秀吉より佐渡征伐を命じられた上杉景勝は、天正十七年六月十二日出雲崎から千艘余りの船で佐渡に向けて出発し、沢根に上陸し河原田城を攻略しました。次いで十六日羽茂城を攻め、一日にして攻略したと伝えられています。城主の本間高季は弟の赤泊城主・本間高頼とともに逃亡しますが、捕えられ斬首されました。四百年続いた本間氏は滅亡し、景勝は佐渡平定を果たしました。
景勝から佐渡の支配を任された直江兼続は、佐渡各地に与板衆・上田衆を代官として配置し、所領を与えたとされています。
羽茂城は羽茂川下流右岸の標高82メートルの城山に位置し、新潟県の史跡に指定されています。
戦国時代に南佐渡最大の河港と一帯を支配した羽茂本間氏の居城で、規模の大きな山城です。複雑な地形を利用して大改修を行い、防備を固めました。山頂には殿屋敷跡、東北・西北・南に城の跡、元屋敷・奥方屋敷跡、馬場・大手門跡などが残っています。
| 所在地 | 新潟県佐渡市羽茂本郷 |
| アクセス | 両津港よりバス、小木港より車15分 |
| 問 | 佐渡市役所羽茂支所 産業振興課観光商工係 |
―「表裏比興」によって手中に収めた真田氏の城
天正六年(1578)御館の乱の混乱に紛れ、真田昌幸は沼田城を手に入れました。同十年三月に武田氏が滅亡し、六月に信長が本能寺の変に倒れると、北条氏は昌幸の主家・徳川家康に沼田城の譲渡を要求しました。秀吉は名胡桃城の安堵を条件に昌幸を説得しましたが、北条氏は力ずくで奪取します。昌幸は北条方の約定違反を訴え、秀吉はこれを大義名分に小田原攻めを決意しました。
沼田城は天文元年(1540)に沼田顕泰によって築城された、利根川と蓮根川の合流点・70メートルの崖上に建つ崖端城です。
越後と関東を結ぶ水陸交通の要衝であった沼田は、経済・軍事両面にわたり重要な拠点でした。
遺構は郭跡・土塁・石垣・堀跡があり、本丸の太鼓櫓が復元されています。
北条氏の滅亡後、昌幸の嫡子・信幸が入城し、5層の天守を造営するなど城の規模を拡大しました。天和元年(1681)真田氏の改易により廃城となりますが、本多氏により再建され明治維新を迎えています。
| 所在地 | 群馬県沼田市倉内 |
| アクセス | アクセス 関越自動車道「沼田」ICより車10分 JR上越線「沼田」駅より徒歩30分 |
| 問 | 沼田市役所(代)0278-23-2111 |
土岐邸の正式名称は、登録有形文化財「旧土岐家住宅洋館」です。
土岐邸は、最後の沼田藩主・土岐頼知公の子孫が居住していた家屋を東京から移築したもので、沼田公園二の丸跡にあります。
御殿桜は、江戸時代からあると伝わる桜の古木です。
沼田城時代の石垣と階段で、平成9~10年度の発掘調査によって発見されたものです。
―佐渡守護代・本間氏の一族、河原田本間氏の居城
天正十四年(1586)豊臣秀吉より佐渡征伐を命じられた上杉景勝は、同十七年六月十二日出雲崎から千艘余りの船で佐渡に向けて出発しました。沢根城主の本間左馬助の協力を得て沢根に上陸した上杉軍は、本間高統の河原田城を攻撃します。このとき城主の本間佐渡守高統は島内の兵を集め応戦しましたが、ついに城に火を放ち自刃したといいます。景勝は次いで本間高季の羽茂城を攻略し、本間氏は滅亡します。佐渡を平定した景勝は、家臣の青柳隼人・黒金尚信らを代官として配置しました。
河原田城は別名を東福寺城・獅子ヶ城ともいい、北佐渡を支配した河原田本間氏の居城でした。佐和田町を望む小高い台地に位置し、周囲を石田川や水田に囲まれた天然の要害です。
現在は県立佐渡高等学校の敷地となり、遺構はほとんど失われてしまいました。
| 所在地 | 新潟県佐渡市石田 |
| アクセス | 両津港より、小木港より |
| 問 | 佐渡市役所 0259-63-3111 |
―秀吉が天下支配のために築いた絢爛豪華な輪郭式平城
豊臣・徳川の危うい関係が和解に向けて動き出すと、秀吉は上杉景勝に東国仕置の前に上洛するよう促します。天正十四年(1586)六月十四日、景勝は直江兼続らを従え大坂城に登城しました。
古来より海上交通と淀川水系舟運の合流点であった石山本願寺跡地に目をつけた秀吉が、天下支配の中心として築いた輪郭式平城です。黒田官兵衛の縄張りによる大阪城は、五層八重の輝く大天守・表御殿・奥御殿のある本丸が三段の石垣上にあります。
この本丸を二の丸・三の丸・西の丸・山里曲輪が取り巻き、「大阪冬の陣」の際には、真田幸村が惣構の南西に出丸を増築して守りを固めています。その後の徳川方の巧妙な交渉で堀は埋め立てられ本丸だけの裸城となり、翌年の「夏の陣」で落城しました。その後幕府によって再建されましたが、秀吉の大阪城の面影を偲ぶことはできません。
現在では大阪城公園となり、13棟が重要文化財に、城跡一帯は国の特別史跡に指定されています。
| 所在地 | 大阪府大阪市中央区大阪城 |
| アクセス | 13号東大阪線「法円坂」・「森之宮」 JR大阪環状線「大阪城公園」・「森ノ宮」駅より 地下鉄谷町線「天満橋」・「谷町4丁目」 中央線「森ノ宮」・「谷町4丁目」 長堀鶴見緑地線「大阪ビジネスパーク」・「森ノ宮」 市バス「大手町」・「馬場町」 京阪「天満橋」 |
| 問 | 大阪城事務所 06-6944-0546 |
写真:大阪城天守閣所蔵 無断複製・転用を一切禁止いたします
―越後・越中国境の難所・親不知にそびえる要害の城
天正十三年(1585)八月、豊臣秀吉は越中の佐々成政攻めの軍を発しました。迎え撃つ成政はあまりの兵力の差に富山城を無血開城します。天下統一を目指す秀吉は、越後の上杉景勝に会見を申し入れました。それを受けて景勝は直江兼続を従えて、糸魚川の落水城で秀吉と会見しました。兼続はその後、深く影響を及ぼし合う石田三成と出会います。
落水城は別名を勝山城(かつやまじょう)・墜水城ともいい、越中との国境・親不知の標高328メートルの山上に築かれた堅固な山城です。
本丸跡は幅25メートル・長さ30メートル、郭・空堀・井戸などの遺構が残っています。北陸道を眼下に監視できるため、根知城・不動山城とともに春日山城支城群の一つとして、越中との国境警備と敵の侵攻を阻止するという重大な役割を担っていました。
| 所在地 | 新潟県糸魚川市青海 |
| アクセス | 北陸自動車道「親不知」ICより車 JR北陸本線「親不知」より |
| 問 | 糸魚川市教育委員会文化振興課 025-552-1511 |
―伊達政宗が生まれ、上杉家が移封となった奥州の古城
慶長三年(1598)豊臣秀吉によって、上杉景勝が会津百二十万石へと移封になると、家臣の直江兼続は三十万石で米沢へと入りました。同五年の関が原の合戦で西軍が敗北し、上杉家は翌六年に米沢三十万石へと減封されました。このとき景勝は家臣を切り捨てることなく移ったため、それぞれが身を削り、痛みを分かち合ったといいます。
米沢城と城下町の造営は兼続に任されました。
米沢城は別名を松岬城・舞鶴城ともいい、米沢市のほぼ中央、最上川の西岸に築かれた平城です。歴仁元年(1238)長井時広によって築城され、戦国時代には、長井氏を滅ぼした伊達氏の居城となり、伊達政宗はこの城で生まれています。江戸時代を通して上杉氏の居城でした。
現在は松が岬公園となり、本丸跡には上杉神社・稽照殿(宝物館)・上杉博物館があり、二の丸跡には旧上杉邸門・上杉記念館(旧上杉伯爵邸)があります。本丸跡の土塁や濠がよく残っており、桜の名所としても知られています。
| 所在地 | 山形県米沢市丸の内1丁目 |
| アクセス | 東北中央自動車道「山形上山」ICより車50分、「福島飯坂」ICより車40分 JR奥羽本線・山形新幹線「米沢」駅よりバス「上杉神社前」下車徒歩1分 |
| 問 | 米沢市商工観光課 0238-22-5111、米沢市立上杉博物館 0238-26-8001 |
| 一口メモ | 上杉博物館・開館時間 9時から17時(入館は16時30分まで) 駐車場 松が岬おまつり広場駐車場(無料)300台 |
―完成すれば奥州一の城郭を持った幻の城
慶長三年(1598)会津に入った上杉景勝は、黒川(若松)城の守りに不安があったため、神指原に新たに城を築くよう直江兼続に命じます。
兼続は自ら普請奉行となり、同五年二月に工事に取りかかりました。小奉行には、大国実頼・甘粕景綱・山田喜右衛門らが任ぜられ、12万人を動員して、突貫工事で行われました。
しかしこの築城工事が徳川家康に上杉討伐の口実を与えることになり、工事は中止されます。家康は上杉討伐へと進軍し、石田三成が挙兵したため、関が原の合戦となりました。合戦に敗れた西軍についた上杉家は、米沢へと減封になり、神指城は破却されました。
神指城の本丸は東西180メートル、南北220メートルの方形で、高石垣と幅40メートルの水濠をめぐらせた輪郭式の平城です。当時としては最先端の縄張で、鉄砲による攻撃を意識した構えになっていました。面積は鶴ヶ城の二倍あり、完成すれば奥州一の巨大城郭となった城です。
現在では、二の丸の一部と本丸跡をわずかに残すのみです。二の丸には国の天然記念物・樹齢600年の大欅が聳えています。
| 所在地 | 福島県会津若松市神指町 |
| アクセス | 磐越自動車道「会津若松」ICより車5分 JR磐越西線「会津若松」駅よりバス「黒川」下車・徒歩15分 |
| 問 | 会津若松観光課 0242-39-1251 |
―戊辰戦争の悲話でも知られる、奥州支配の要の城
天正十八年(1590)小田原北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は、伊達政宗が明け渡した会津黒川(若松)城に入り、奥州仕置き(北条攻めの論功行賞)を行いました。黒川城には蒲生氏郷を四十二万石で封じました。
文禄四年(1595)氏郷が病死すると、蒲生家は重臣同士のいがみ合いで混乱。奥州の伊達・関東の徳川に対して要であった会津に、秀吉は慶長三年(1598)上杉景勝を百二十万石で入城させます。景勝はさっそく領内の重要拠点に腹心を配置して体制を固めました。
若松城は別名を鶴ヶ城・黒川城とも呼ばれる平山城で、国の史跡に指定されています。
至徳元年(1384)芦名直盛によって築城され、その後芦名氏の居城でしたが、天正十七年伊達政宗によって滅ぼされました。蒲生氏は城の名を鶴ヶ城と改め、近世城郭へと改修、城下町も若松と改称し整備しました。関が原の戦い後は、蒲生氏・加藤氏・保科氏・松平氏の居城となり、慶応四年(1868)の戊辰戦争では、一ヶ月の篭城に耐えましたが、降伏し開城となりました。
本丸は現在「鶴ヶ城博物館」として資料が展示・公開され、城の周りは桜の美しい公園として、市民に広く親しまれています。
| 所在地 | 福島県会津若松市追手町1-1 |
| アクセス | 磐越自動車道「会津若松」ICより車20分 JR磐越西線「会津若松」駅よりバス15分 |
| 問 | 鶴ヶ城博物館 0242-27-4005 |
| 一口メモ | 開館時間 8時30分から17時(入城締め切り 16時30分) 駐車場 有り(有料) |
―動乱の世に兼続と志をともにした石田三成の居城
慶長五年(1600)の関が原の戦いの一年前、上杉景勝は伏見城で徳川家康に会津帰国の許しを得て、会津へと向かいました。直江兼続はその途中、別行動をとり琵琶湖畔の佐和山城に立ち寄ります。「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」と謡われた佐和山城でしたが、実際には内部は質素な作りであったといいます。そこで兼続と三成は、お互いの意思を確認しました。
佐和山城は、鎌倉時代に豪族の佐保氏によって築城された山城で、戦国時代は浅井氏の支城でしたが、織田信長に敗れ開城しました。
本能寺の変後、豊臣秀吉はここが交通の要衝であったことから、有力な武将を配し、天正十八年(1590)には、五奉行の一人石田三成が入城、城と城下町の大規模な改修を行いました。関が原の戦い後は井伊氏が入城しましたが、領民の三成への信頼が厚く、新たに彦根城を築城し移ったため慶長十六年(1606)、廃城となりました。
山頂からは琵琶湖や比良山系が一望できます。彦根城築城に際して破却されたために、現在残っているのは土塁・石垣・井戸などです。
| 所在地 | 滋賀県彦根市佐和山町鳥居本町 |
| アクセス | 名神高速道「彦根」ICより国道8号 JR東海道本線「彦根」駅より車 |
| 問 | 彦根市 0749-22-1411 |
| 一口メモ | 龍潭寺参拝者駐車場が利用可(20台) |
―謙信の壁書はここに掛けられていたという
春日山城には「運は天にあり、鎧は胸にあり、手柄は足にあり」で始まる上杉謙信の壁書が掛けられていたと言います。 そこには戦陣の心得が書かれていました。
小説『天地人』では会津移封を前にした直江兼続が、天守台にある謙信の壁書に向き合う場面があります。
謙信は、「いつも敵を掌に入れて合戦をするべきである。そうすれば敗けることはない。死のうと戦えば生き、生きようと戦えば死ぬるものなり。これは不定のようだが、武士の道を不定と思ってはならない。必ず一つの定まっているものがあるのだ。」と、無欲であることの大切さを壁書に記しました。
春日山城山頂には本丸跡の南に深さ2メートルの空堀を挟み、東西22メートル南北19メートルの天守台跡があります。二層か三層の櫓があったのではないかとされています。
| 所在地 | 新潟県上越市大豆 |
| アクセス | 北陸自動車道「上越」ICより15分 JR信越本線「春日山」駅より徒歩30分で登り口、北陸本線「直江津」駅よりバス |
| 問 | 上越市教育委員会 025-526-5111 |
| 一口メモ | 駐車場有り |
―天下の名城春日山城、そのスケールの大きさを体感
春日山城は大変規模の大きな山城でした。城域は春日山全山に及んでおり、面積は500ヘクタールを越えます。主に父為景と謙信の代に大きく改修され、今のような姿になったと言われています。
謙信が春日山城を居城とした三十年の間は遠征の連続でした。謙信は拠点である春日山城の防御を固めるため、大規模な普請を行う必要があったのです。春日山城下の大豆から中屋敷にかけて約1,200メートルにわたって監物堀と監物土居(土塁)がありました。これは堀秀治の時代に掘られたものですが、中世の山城から近世の城への変遷を示す貴重な遺構です。
春日山城史跡広場は春日山城跡の北東の端に位置する楼門地区の遺構を、発掘調査に基づいて復元、整備したものです。監物堀、監物土居、番小屋などが復元され、春日山城のスケールの大きさを実感することができます。
また毎年8月に開かれる謙信公祭では、この広場で川中島合戦の様子が再現されています。
| 所在地 | 新潟県上越市大豆334 |
| アクセス | 北陸自動車道「上越」ICより10分 JR信越本線「春日山」駅より徒歩30分、北陸本線「直江津」駅よりバス |
| 問 | 春日山城跡ものがたり館 025-544-3728 |
―信越国境の要害には御館の乱にまつわる落城悲話
天正六年(1578)、謙信の突然の死によって二人の養子による家督争い(御館の乱)が起こります。
甥の景勝は春日山城実城を占拠、一方小田原の北条氏康の七男三郎景虎は、妻子とともに府中の御館に立てこもりました。翌年景勝は猛攻撃をかけて御館を攻略、このとき景虎の妻(景勝の姉)は自害したと伝えられています。関東管領上杉憲政は景虎の長男の道満丸を連れ、和議を求め春日山城へと向かいましたが、途中の四ツ屋砦で命を落としました。
御館を逃れた景虎は小田原へ逃亡しようと途中の鮫ヶ尾城に立ち寄ります。しかし城主堀江宗親の裏切りに会い断念、鮫ヶ尾城で自刃しました。享年二十六歳でした。
鮫ヶ尾城は、標高183メートル、本丸跡からは高田平野、日本海、妙高連峰が一望できます。前には関川と矢代川が流れ、後ろは険しい南葉連峰が迫り、春日山城の支城として信越国境の要害であったことがわかります。山頂を中心に規模の大きな郭や空堀、直径3メートルの大井戸があります。米蔵跡からは現在も焼けた米が出土します。これは落城の際の戦火によるものだと言われています。城下の勝福寺には「上杉三郎景虎供養塔」、「上杉景虎石像」があります。
| 所在地 | 新潟県妙高市宮内・雪森・籠町・乙吉 |
| アクセス |
上信越自動車道「中郷」、「上越高田」ICより車15分 |
| 問 | 妙高市教育委員会 0255-72-2270、妙高市観光協会 0255-86-3911 |
―義に生きた戦国武将、上杉謙信の拠点、巨大山城
上杉謙信は天文十七年(1548)から天正六年(1578)に死去するまでの三十年余り、春日山城を居城としました。関東、信濃、北陸へと出陣、二度の上洛を果たしましたが、戦乱の世であっても一度も領土拡大のための出兵は無かったと言います。
謙信の没後、二人の養子であった甥の長尾景虎と小田原北条家の七男三郎景虎の相続をめぐる争い、御館の乱が勃発します。武田、北条氏をも巻き込み越後を二分した争いへと発展していきました。二年余り続いた戦乱は景勝の勝利により幕を閉じ、その後慶長三年(1598)豊臣秀吉の命によって、会津移封となるまで、上杉景勝は、ここ春日山城を居城としました。動乱の世にあって景勝を支えたのは、二十一歳という若さで家老職に就いた直江兼続でした。
春日山城は中世の典型的な巨大山城で、国の史跡に指定されています。標高180メートル、東西は約2キロ、南北約1.3キロメートルに及んでおり、遺構は曲輪、土塁、堀、門、大井戸、道路とよく残っています。山頂の天守台跡、本丸北の毘沙門堂、護摩堂跡、諏訪堂跡、そして二の丸跡、三の丸跡、米蔵跡などがあります。慶長三年堀氏が入りましたが、その後、福島城(直江津港近く)を築き移ったため、城としての役目を終えました。
| 所在地 | 新潟県上越市大豆 |
| アクセス | 北陸自動車道「上越」ICより15分 JR信越本線「春日山」駅より徒歩30分で登り口、北陸本線「直江津」駅よりバス |
| 問 | 上越市教育委員会 025-526-5111 |
| 一口メモ | 駐車場有り |
―謙信の重臣古志長尾氏の居城そして母虎御前の生家?
築城時期は定かではありませんが、明応年間(1492から1501)には古志長尾氏の居城であったようです。
栖吉城は謙信の母虎御前の生家であるとも言われ、虎御前はまた景勝の祖母でもありました。(一説には、謙信の母は坂戸城の上田長尾氏の娘であったとも言われる)観音菩薩への信仰篤く、幼い謙信に大きな影響を与えたと言われています。
栖吉衆を率いる古志長尾氏は、謙信の下重要な役割を果たしましたが、天正六年(1578)の御館の乱では三郎景虎方につき、景勝に攻められ滅亡しました。栖吉城はその後、景勝の番城となり、慶長三年(1598)景勝の会津移封によって廃城となりました。
栖吉神社わきからの緩やかな尾根が大手道です。標高328メートルの本丸跡からは長岡市街が一望できます。規模の大きな郭、空堀、土塁、畝形阻塞を巧みに設置した非常に堅固な山城で、新潟県の史跡に指定され、山城最盛期の特色が見られます。本丸跡は東西55メートル、南北34メートルと広く、東西南下に幅4メートルの空堀が巻いています。城主館は山麓の、古志長尾氏の菩提寺である普済寺近くの「館の越」にありましたが、今はその面影はありません。
| 所在地 | 新潟県長岡市栖吉町 |
| アクセス | 関越自動車道「長岡」ICより車20分 JR上越線、信越本線「長岡」駅よりバス |
| 問 | 長岡市観光課 0258-39-2221 |
―城下町与板の基盤は兼続によって築かれた
直江兼続は与板城在城中に、新田開発や鉄砲産業の振興、市の開催、道路の整備など農、工、商業全般にわたりその発展に尽力し、その手腕を揮いました。
与板の城下町としての基礎は兼続によって築かれたと言っても過言ではないでしょう。その一方で幼いころから学を好み、大変な読書家でもありました。
二の丸跡は本丸跡の南に位置し、幅30メートル長さ75メートルの広さがあります。さらに南の方向に三の丸から千人溜などの主郭が一列に配置されています。それぞれ土塁をめぐらせ、深い空堀で区切られており千人溜側には斜面15メートルの大空壕があります。本丸跡から北側を下ると大手道があり、西の谷には城主の館があったと伝えられています。
城山は新潟県の文化財に指定されています。
| 所在地 | 新潟県長岡市与板町与板 |
| アクセス | 北陸自動車道「中ノ島見附」ICより車20分 JR上越線、信越本線「長岡」駅、「見附」駅よりバス |
| 問 | 与板町観光協会 0258-72-3100 |
| 一口メモ | 八坂神社わきの登り口―近くのうみまち森林公園の駐車場利用可 |
―上杉景勝の執政直江山城守兼続の居城跡
御館の乱に勝利した上杉景勝の執政となった直江兼続は、行政、財政、軍事、外交面すべてにわたり手腕を発揮していきます。
奉行として兼続を支えたのは、家臣団の「与板衆」でした。与板には百二十一名の与板衆がいたと伝えられています。慶長三年の景勝の会津移封に伴い「与板衆」も兼続に従いました。
与板城は標高104メートルの山城で新潟県の史跡に指定されています。本丸跡は東西27メートル、南北42メートルあり、西端には高さ2メートル、長さ46メートルの土塁が巻いています。二の丸、三の丸の間はそれぞれ4メートルから9メートルの深い空堀で区切られています。本丸跡には城山稲荷神社が祀られ、樹齢四百年と伝えられる城の一本杉、直江兼続の碑、海音寺潮五郎の碑などが建っています。
与板城の映像はこちら>
| 所在地 | 新潟県長岡市与板町与板 |
| アクセス | 北陸自動車道「中ノ島見附」ICより車20分 JR上越線、信越本線「長岡」駅、「見附」駅よりバス |
| 問 | 与板町観光協会 0258-72-3100 |
| 一口メモ | 八坂神社わきの登り口―近くのうみまち森林公園の駐車場利用可 |
―直江実綱(景綱)、信綱、兼続三代の居城した城
上杉謙信の重臣直江実綱(景綱)の婿養子、信綱は春日山城で斬殺されます。御館の乱の恩賞問題で毛利秀広と山崎秀仙のいさかいに巻き込まれたためでした。景勝は直江家の名跡を惜しんで、御館の乱で軍功のあった樋口兼続に与板城(本与板城)と直江の名跡を与えました。
本与板城は南北朝の動乱期に新田氏の一族の籠沢入道が築城したと伝えられています。その後は上杉房定の重臣飯沼氏の居城となり天文十五年ごろ実綱の城になりました。
標高98メートルの山城で新潟県の史跡に指定されています。実城跡から西にのびる尾根上に二の丸、三の丸が一列に配され、土塁と深い空堀によって防備したもので、典型的な戦国期の遺構が随所に残っています。山麓には城主館跡、別当屋敷跡、長松寺屋敷跡があります。
本与板城の映像はこちら>
| 所在地 | 新潟県長岡市与板町与板 |
| アクセス | 北陸自動車道「中ノ島見附」ICより車20分 JR上越線、信越本線「長岡」駅、「見附」駅よりバス |
| 問 | 与板町観光協会 0258-72-3100 |
―長尾景虎(謙信)旗揚げの城、御館の乱では景勝に抵抗
築城時期は定かではありませんが、南北朝の動乱時代には北朝の拠点となり、室町時代には古志長尾氏が交代で在城していました。長尾景虎(後の上杉謙信)旗揚げの城として有名です。天正六年(1578)の御館の乱の際には城主本庄秀綱は景虎方につき景勝に抵抗しますが、同八年四月、景勝軍の猛攻撃を受け落城しました。
本丸跡は標高227メートル、比高157メートル。険しい稜線と深い谷を利用して築かれた、堅固な中世の山城です。西に流れる刈谷田川、西谷川が天然の堀となっています。曲輪、馬場跡、千人溜、今も湧く金銘泉、狼煙台などの遺構がよく残っており、本丸跡裏側には野面積石垣が鉢巻状にめぐらされています。新潟県の史跡にも指定されている貴重な遺跡で、山頂からは刈谷田川や栃尾盆地が一望でき、ここが天然の要害であったことが実感されます。
慶長三年(1598)上杉景勝の会津移封によって堀家の家臣神子田政友が城主となりましたが、同十五年(1610)堀家の没落とともに廃城となりました。
| 所在地 | 新潟県長岡市栃尾大野町 |
| アクセス | 関越自動車道「長岡」ICより車30分 JR上越線、信越本線「長岡」駅よりバス「栃尾新町」下車 |
| 問 | 栃尾観光協会 0258-51-1195 |
坂戸城





