墓・石碑・像・公園
―謙信軍中、最強と謳われた上田長尾氏家臣団の屋敷跡
南魚沼市樺野沢にあります。
上田長尾氏は、南北朝時代から上杉憲顕の家臣として南魚沼上田庄の支配を委ねられ、それまでこの地方の土豪であった栗林氏、樋口氏など多くを支配下に収めていきました。
この土豪衆は、戦国時代には上田衆と呼ばれるようになり、上田長尾氏の家臣団としてまとまっていきます。川中島の合戦の際にも、謙信の率いた上杉軍中最強と恐れられ、必ず先陣を任されました。
樺沢城主館跡より少し下ると、小泉屋敷、黒金屋敷、綿貫屋敷、宮島屋敷などの上田衆の屋敷跡があります。周辺には古町、桜町などの城下町、上田橋、上田山大儀寺跡などが残り、当時の上田庄の中心であったことが偲ばれます。
上田五十騎について
上田長尾氏の家臣団は上田衆と呼ばれ、上杉謙信軍中最強と恐れられていたと言われています。先陣を任されたという上田衆の打ち鳴らす陣太鼓はやがて御実城太鼓と呼ばれるようになりました。
景勝公が、謙信の養子として春日山城に入る際、坂戸城のその家臣の中から50人の精鋭が選ばれ「上田五十騎」を編成しました。
| 所在地 | 新潟県南魚沼市樺野沢 |
| アクセス | 関越自動車道「塩沢石打」ICより車10分 JR上越新幹線「越後湯沢」駅より車20分 JR上越線「上越国際スキー場前」駅より徒歩3分 |
| 問 | 南魚沼市教育委員会 025-777-4671 |
| 一口メモ | 駐車場特になし |
―上杉景勝のへその緒を収めたと伝えられている
南魚沼市樺野沢、樺沢城跡の中腹にあります。
上杉景勝は弘治元年(1555)樺沢城で生まれたと言われています。
胞衣塚は景勝公の胞衣(へその緒)を収めたと伝えられ、当時から安産の宮として信仰をあつめているそうです。城は中世の山城ですが、山は緩やかで起伏に富み、防御のため幾重にも築かれた帯曲輪、空堀土塁などが残っており、ハイキングに最適です。
胞衣塚は山の中腹あたり、二の丸の奥に位置しています。
| 所在地 | 新潟県南魚沼市樺野沢 |
| アクセス | 関越自動車道「塩沢石打」ICより車10分 JR上越新幹線「越後湯沢」駅より車20分 JR上越線「上越国際スキー場前」駅より徒歩3分 |
| 問 | 南魚沼市教育委員会 025-777-4671 |
| 一口メモ | 駐車場特になし |
―後の直江兼続、樋口与六は六歳の時、仙桃院に見出された
景勝と兼続の生誕の碑は坂戸山の山麓にあります。
喜平次顕景、のちの上杉景勝は弘治元年(1555)坂戸城主長尾政景と謙信の姉、仙桃院の嫡子として生まれました。五年後の永禄三年(1560)には樋口与六兼続、のちの直江兼続が長尾家の家臣、樋口惣右衛門兼豊の長男として生まれます。与六は六歳のときに仙桃院に見出され、景勝の小姓としてお側に仕えることになります。
二人はその後、深い主従関係で結ばれ、激動の乱世をともに生きていくことになるのです。
生誕の碑は、坂戸城近くにあります。
| 所在地 | 新潟県南魚沼市坂戸 |
| アクセス | 関越自動車道「六日町」ICより車10分 JR上越線「六日町」駅より登山口まで徒歩30分 |
| 問 | 南魚沼市観光協会 025-772-7171 |
―長尾政景の死は謎に包まれている
政景公のお墓は南魚沼市の坂戸山山麓の緑の木立の中にあります。
政景の死については諸説あり、真相はわかっていません。小説「天地人」では、景勝の父政景が野尻池で舟遊びの途中、家臣の下平修理吉長によって殺害されたとしています。「北越軍記」などによると宇佐美定満の謀殺説があります。しかし、上杉謙信が武田信玄との戦い(永禄4年の川中島出陣)にあたり、謙信は政景に留守将として全権を委ねていることからも、宇佐美氏による謀殺説は信憑性がないと「上田史談会」の方たちは語っています。
| 所在地 | 新潟県南魚沼市坂戸 |
| アクセス | 関越自動車道「六日町」ICより車10分 JR上越線「六日町」駅より登山口まで徒歩30分 |
| 問 | 南魚沼市観光協会 025-772-7171 |
―長尾政景溺死の地はここだったのか?
坂戸城にとって外堀の役目を果たしていた魚野川が、坂戸山裾にぶつかり大きく蛇行し、渦巻いていたところが銭淵でした。
長尾政景が溺死したのはここだったという説もあります。
平成8年に河川改修されて、銭淵公園となっています。日本庭園風のしつらえで、四季を通じて花が咲き、遊歩道で中央の池のまわりを散策することができます。駐車場では、5月から10月の日曜日、朝6時から8時(売り切れ次第終了)に六日町温泉朝市を開催しています。
| 所在地 | 新潟県南魚沼市坂戸 |
| アクセス | 関越自動車道「六日町」ICから国道17号を湯沢方面に2km走った先を左折、坂戸橋を渡り1km左折 JR上越線「六日町」駅より徒歩20分 |
| 一口メモ | 駐車場 20台 無料 |
―義に生きた名主従上杉景勝と直江兼続、生誕の地に
長尾喜平次顕景(後の上杉景勝)は弘治元年(1555)坂戸城主長尾政景の嫡子として生まれました。五年後の永禄3年(1560)樋口与六兼続(後の直江兼続)は長尾家の家臣、樋口惣右衛門兼豊の長子として坂戸城下に生まれます。与六は6歳のとき、景勝に小姓として仕えることになります、名僧北高全祝や通天存達の下、共に雲洞庵で学び、謙信の養子となる景勝に従い春日山城に入りました。その後御館の乱に勝利した景勝が上杉家を継ぐと、兼続は若くして執政となり内政に外交にと手腕を発揮、終生景勝を支え続けました。景勝と兼続名主従は師である謙信から受け継いだ「義」を貫いて、動乱の戦国末期を生き抜いたのです。
上杉景勝と直江兼続のレリーフは二人が生まれ共に育った南魚沼市の市役所前にあります。
| 所在地 | 新潟県南魚沼市六日町180-1 |
| アクセス | 関越自動車道「六日町」ICより10分 JR上越線「六日町」駅より徒歩5分 |
| 問 | 南魚沼市観光協会 025-772-7171 |
―兼続の叔父と言われる主水助の居館跡
御館の乱で景勝側について活躍した樋口主水助の知行地は南魚沼郡湯沢町にありました。「主水屋敷」という地名はJR越後湯沢駅の近くにあり、主水助の居館跡は現在、公園になっています。公園内には、川端康成の「雪国」の有名なフレーズが刻まれた文学碑もあります。
主水助は兼続の叔父にあたるのではないかと考えられていますが、樋口一族の栄光は兼続が藩の執政になってからのものです。それ以前の樋口家の系譜に関する記録は少なく、詳しいことはわかっていません。樋口氏は『兼続伝』などにより、木曽義仲の四天王の一人と呼ばれた樋口次郎兼光を祖とすると伝えられています。
| 所在地 | 新潟県南魚沼郡湯沢町大字湯沢字滝沢361-1 |
| アクセス | 関越自動車道湯沢ICより車で5分 JR越後湯沢駅より徒歩5分 |
| 問 |
湯沢町観光協会 0257-85-5505 |
―戦国の世に生を受けた、孤高の聖将上杉謙信
享禄三年(1530)上杉謙信は越後守護代長尾為景の末子として、春日山城で生まれました。
七歳のとき、城下の林泉寺に預けられ名僧天室光育禅師より厳しい教育を受けました。この時期に謙信の素養が培われたと言われています。
十四歳のとき守護代長尾家を継いだ兄晴景の要請で、栃尾城に入り騒乱を鎮圧。
天文十七年(1548)十九歳のとき兄に代わって守護代長尾家を相続しました。
その後四十九歳で死去するまでは、諸将の救援の求めに応じ遠征に明け暮れる年月でした。しかし自国の領土拡大のための戦はせず、戦国武将には稀有な、義に生きた名将として有名です。
朝廷と幕府の再興という夢を持っていた謙信は、関東遠征を目の前に突然その生涯を閉じました。
謙信公の銅像は春日山神社の参道の脇に建っています。NHKの大河ドラマ「天と地と」放映のおりに石垣とともにつくられました。甲冑を着け、白頭巾を被り遠くを見つめて立っています。堂々とした中にも清廉な心を宿したまなざしの謙信公像です。
| 所在地 | 新潟県上越市大豆 |
| アクセス | 北陸自動車道「上越」ICより15分 JR信越本線「春日山」駅より徒歩30分で登り口、北陸本線「直江津」駅よりバス |
| 問 | 上越市教育委員会 025-526-5111 |
| 一口メモ | 駐車場有り |
―十一年間にも及んだ川中島合戦犠牲者の供養塔
天文二十二年(1553)、武田信玄に領土を奪われた村上義清ら北信濃川中島地方の諸将は、長尾景虎(上杉謙信)に救援を求めました。それに応えて出陣したのが、十一年にも及んだ川中島合戦の始まりです。合計5度にわたって、犀川と千曲川に挟まれた地域とその周辺で、合戦が繰り返されました。中でも永禄四年(1561)の第4次の合戦は激戦となり、武田軍4千名以上、上杉軍3千名とも言われる多大な犠牲者を出したと伝えられています。
川中島合戦供養塔は、林泉寺の墓所にあり、1623年に建てられたものです。
| 所在地 | 新潟県上越市中門前1丁目1-1 |
| アクセス | 北陸自動車道「上越」ICより15分 JR信越本線「春日山」駅より徒歩30分、北陸本線「直江津」駅よりバス |
| 問 | 林泉寺 025-524-5846 |
| 一口メモ | 駐車場有り(50台) |
―上杉謙信公のこころはふるさとの菩提寺に眠る
天正六年(1578)三月九日、上杉謙信は春日山城の厠で倒れました。治療や祈祷などあらゆる手が尽くされましたが、謙信の意識が戻ることはなく、三月十三日の午後二時ごろ亡くなったと伝えられています。関東遠征を目の前に控え、後継者も決めぬまま、四十九歳の生涯を閉じました。.
林泉寺の惣門を入ると本堂の左側に謙信公の御墓へと向かう石段が続いています。上杉家の米沢移封に伴い、林泉寺も米沢へと移りました。
現在の林泉寺は堀氏により再建されたものですが、ふるさと春日山城の麓、天室光育禅師より薫陶を受けたこの地に、謙信公の供養塔が建っています。
| 所在地 | 新潟県上越市中門前1丁目1-1 |
| アクセス | 北陸自動車道「上越」ICより15分 JR信越本線「春日山」駅より徒歩30分、北陸本線「直江津」駅よりバス |
| 問 | 林泉寺 025-524-5846 |
| 一口メモ | 駐車場有り(50台) |
―御館の乱で落城、あたりは火の海になったという
天文二十一年(1552)上杉憲政は小田原の北条氏康に敗れ、謙信を頼って府中へと逃れてきました。御館とは謙信が関東管領上杉憲政のために建てた館のことです。その後、天正六年(1578)謙信が突然死去、養子であった甥の長尾景勝と小田原北条家の七男三郎景虎とが、家督相続をめぐって争いとなりました。景勝は春日山城に、景虎は府中の御館に立てこもり、越後の諸将は二手に分かれ争うことになります。翌天正七年、景勝は御館に猛攻撃をかけます。府中は火の海となり、安国寺、至徳寺などの古刹が焼失、それから一ヶ月余りの攻撃によって御館は落城しました。
御館跡は直江津駅西方1キロメートルの住宅地の中にあります。現在は内郭の一部が公園として整備されています。御館の内郭は東西135メートル、南北150メートルの大きさで、堀を二重に築き、厚い土塁で防御を固めた方形の館です。発掘調査によって、陶磁器片、古銭、鉛弾、武具、べっ甲製のくしなどが出土しました。
| 所在地 | 新潟県上越市五智1丁目 |
| アクセス | 北陸自動車道「上越」ICより車10分 JR信越本線、北陸本線「直江津」駅より徒歩10分 |
| 問 | 上越市教育委員会 025-526-5111 |
―上杉謙信の生涯を描いた「天と地と」の著者直筆の碑
上杉謙信は戦国時代の武将の中でも特異な存在でした。金銀山の開発、水利事業、新田開発、あおその生産と販路の拡張など経済政策とともに義を重んじ、経済と義の両方のバランスを見事にとりながら、越後の国の秩序を保っていたのです。
直江兼続は春日山城にいたころ謙信からさまざまな薫陶を受けたと言われています。
謙信亡き後、兼続は主君景勝の下で、師と仰ぐ謙信の志を受け継ぎ政治に経済にと、その辣腕を振るっていきます。その後上杉家が米沢に減封となってからも、この「謙信―兼続」の志は引き継がれて、上杉鷹山へと繋がっていったのです。
与板城本丸跡に建つ碑には、海音寺潮五郎直筆の「直江山城守旧城跡本丸」と刻まれています。
| 所在地 | 新潟県長岡市与板町与板 |
| アクセス | 北陸自動車道「中ノ島見附」ICより車20分 JR上越線、信越本線「長岡」駅、「見附」駅よりバス |
| 問 | 与板町観光協会 0258-72-3100 |
| 一口メモ | 八坂神社わきの登り口―近くのうみまち森林公園の駐車場利用可 |
―「所望事信一字」兼続直筆の文字を刻んだ石碑
与板城のある城山山麓の八坂神社の石段を登ると、遊歩道が続いています。しばらくは竹林の中を登る道ですが足元には笹の葉が敷きつめられており、ときに聞こえてくる小鳥のさえずりが心地良い道です。しばらく登ると周りは杉木立に変わり、頂上はもうすぐです。標高104メートルの城山頂上の本丸跡には、城山稲荷神社が祀られ、城の一本杉や兼続の碑、海音寺潮五郎の碑などが建っています。
兼続の碑には直筆の書状から一文が刻まれており、「所望事信一字(望むところのこと信の一字) 慶長二年二月六日 直江山城守兼続 花押」とあります。
| 所在地 | 新潟県長岡市与板町与板 |
| アクセス | 北陸自動車道「中ノ島見附」ICより車20分 JR上越線、信越本線「長岡」駅、「見附」駅よりバス |
| 問 | 与板町観光協会 0258-72-3100 |
| 一口メモ | 八坂神社わきの登り口―近くのうみまち森林公園の駐車場利用可 |
―豊臣秀吉をして戦国の世の三傑と言わしめた人物
直江兼続は坂戸城主長尾政景の家臣樋口惣右衛門兼豊の長子として坂戸城下で生まれました。その利発さを認められ、景勝の小姓となります。その後景勝が謙信の養子となったため景勝に従い春日山城に入りました。謙信の死後起こった御館の乱で、景勝擁立の中心的役割を果たし、重臣直江家の名跡を継ぎ、与板城主となりました。その後豊臣政権のもとで景勝に従い数々の功績を上げていきます。秀吉は、「天下の政治を安心して預けられるのは兼続など数人に過ぎない」と高い評価を与えたと言います。
慶長三年景勝の会津移封に伴い、米沢城三十万石に国替えとなり与板を去りましたが、在城中には与板の発展に力を尽くしました。
直江兼続銅像は直江山城守兼続の業績をたたえて、平成元年に与板町歴史民俗資料館前に建立されました。
| 所在地 | 新潟県長岡市与板町与板乙4356 |
| アクセス | 北陸自動車道「中ノ島見附」ICより車20分 JR上越線、信越本線「長岡」駅、「見附」駅よりバス |
| 問 | 与板町観光協会 0258-72-3100 |
―米沢から分霊され栃尾に、隣には恩師門察和尚の碑
明治四十一年から始まった謙信祭十周年記念事業のなかで、大正四年に建てられたものです。米沢の上杉家より「不識院殿真光謙信の霊牌一基」を贈られ、秋葉公園、七曲山頂の謙信御廟所に祀りました。その隣には、謙信が栃尾城に居城していたときの学問の恩師であった門察和尚の碑が建っています。類まれなる学識で名高い門察和尚は、今は無き瑞麟寺五世として謙信を導き、常安寺を開山しています。
| 所在地 | 新潟県長岡市谷内2丁目 |
| アクセス | 関越自動車道「長岡」IC、北陸道「中ノ島、見附」ICから国道8号351号経由30分 JR「長岡」駅から栃尾車庫行きバス約50分 |
| 問 | 長岡市栃尾支所商工観光課 0258-52-5827 栃尾観光協会 0258-51-1195 |
―謙信ゆかりの秋葉神社境内にある桜と紅葉の名所
通称「七曲がり」と呼ばれる秋葉公園からは栃尾城跡を背景にして栃尾の町が一望できます。ここは、火伏せの神として名高い秋葉神社の境内を公園として整備したところで、現在では春の桜、秋の紅葉の名所として親しまれています。
秋葉神社は秋葉三尺坊大権現と言われ、天文二十年に常安寺の守護神として、謙信が楡原蔵王堂から遷したと伝えられています。毎年7月24日には秋葉の火祭りが開かれ、四千人あまりの人で賑わい、栃尾の夏の風物詩となっています。公園内には、僧の姿の謙信像や謙信廟があります。
謙信公祭の映像はこちら>
| 所在地 | 新潟県長岡市谷内2丁目 |
| アクセス | 関越自動車道「長岡」IC、北陸道「中ノ島、見附」ICから国道8号351号経由30分 JR「長岡」駅から栃尾車庫行きバス |
| 問 | 長岡市栃尾支所商工観光課 0258-52-5827 栃尾観光協会 0258-51-1195 |
―栃尾城跡を背景にして座す僧形の謙信像
上杉謙信の銅像はそのゆかりの地に、さまざまな姿で建てられています。
白頭巾を被った姿で立つ春日山城の謙信像。上杉家減封の地、米沢には、厳しいまなざしで前を見据えた軍神のごとき謙信像。合戦の地、川中島では信玄に斬りかからんとする馬上の謙信像。栃尾美術館前の謙信像は、栃尾城防衛戦の折りの初々しい姿を映しています。
そしてここ秋葉公園の謙信像は僧の姿をしたもので、左手に数珠、右手に軍配団扇、腰には刀を差し、厳しい中にも慈愛を感じさせる風貌で、栃尾城を背景にして座っています。
| 所在地 | 新潟県長岡市谷内2丁目 |
| アクセス | 関越自動車道「長岡」IC、北陸道「中ノ島、見附」ICから国道8号351号経由30分 JR「長岡」駅から栃尾車庫行きバス約50分 |
| 問 | 長岡市栃尾支所商工観光課 0258-52-5827、栃尾観光協会 0258-51-1195 |
上田衆屋敷跡





