山・川・その他
―上田長尾氏の豊かな経済力を支えた川
信濃川の支流、谷川岳西麓を水源とし魚沼地方を南北に流れ、川口町で信濃川と合流します。上流でも比較的川幅が広く水量が豊富です。稲作や酒造にとって重要な水源となっています。
古くは上田庄と呼ばれていた南魚沼地方は、関東と越後を結ぶ交通の要衝にあたり、物資の流通が盛んでした。その物資の運搬に重要な役割を果たしていたのが、舟運です。
上田長尾氏は、上田銀山からの大量の銀や青苧(あおそ=麻)の販売利権によって、本家の府中長尾氏に劣らぬ財力を誇っていました。青苧とは当時の越後の特産品麻糸の原料で、木綿が普及するまでは、非常に珍重されていました。魚沼地方などの山間部で採取され、主に魚野川から信濃川の舟運によって柏崎や直江津へと運ばれていました。そこから海路で敦賀や小浜へ、陸揚げされ京や摂津で商いされていました。
魚野川は上質な水質で鮎やヤマメなどの川魚も多く生息しており、景観が美しく、釣りや川遊び、「やなば」で人気の高い川です。
―その懐には古刹雲洞庵が静寂の杉木立のなかに建つ
標高1,367メートル、JR塩沢駅から見ると正面に聳え立つ山で、山の形が金の字に似ているところに名前の由来があります。名山巻機山から派生する尾根上に位置しています。
景勝と兼続は幼少のころこの金城山の麓にある雲洞庵で、ともに住持の通天存達に学問を学んでいました。通天存達は、景勝の伯父にあたる人で、当時の最高学府の足利学校を主席で卒業したというほどの高僧でした。兼続の兜の前立ての「愛」の文字は、「国の成り立つは民の成り立つを以ってす」という通天存達の教えからきていると言われています。
八合目あたりから越後三山や六日町盆地、坂戸山が見えるようになります。山頂の南側は切り立った崖で近くに「おむろ」と呼ばれる大岩窟があり、薬師如来が祭られています。ここからの眺めはすばらしく、巻機山、越後三山、谷川連峰、苗場山の大パノラマが望めます。
| 所在地 | 南魚沼市雲洞 | ||||||||
| アクセス | 関越自動車道「塩沢石打」ICより車15分 JR上越新幹線「越後湯沢」駅より車25分 JR上越線「石打」駅より車18分 路線バス 「六日町」駅より雲洞入り口まで10分、登山口まで20分 | ||||||||
| 問 | 南魚沼市商工観光課 025-773-6665 | ||||||||
| 一口メモ |
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―謙信の軍用道路、かの清水峠と登山口を同じくする県境の山
日本百名山の一つに数えられている山で、新潟、群馬の両県にまたがっています。
標高1,967メートル、たおやかな山容で頂上近くの草原にはニッコウキスゲ、ハクサンコザクラなどの花が咲き乱れ、オオシラビソの林と相まって美しい景色が広がっています。点在する池のつつみには空の青が映り、神秘的な美しさをたたえています。登山口は麓の清水集落ですが、ここはかの上杉謙信が関東遠征の折に超えていった清水峠の入り口でもあります。
巻機山は登山口からの標高差が1,500メートルと大きいため、麓の清水集落の民宿に泊まって、早朝に出発するのがよいでしょう。
| 所在地 | 関越自動車道「塩沢石打」ICより車25分 | ||||||||||||||||
| アクセス | JR上越新幹線「越後湯沢」駅より車40分 JR上越線「石打」駅より車25分 路線バス「JR六日町」駅より32分(問い合わせ 南越後観光バス 025-773-2573) | ||||||||||||||||
| 問 | 南魚沼市役所商工観光課 025-773-6665 清水観光協会(小野塚) 025-782-0924 清水民宿組合(やまご) 025-782-3402 | ||||||||||||||||
| 一口メモ |
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―雪の坂戸城で打ち鳴らされる勇壮な御実城太鼓
長尾景勝と樋口与六兼続は幼少のころ、ともに坂戸城で過ごしました。
上田長尾氏の家臣団は上田衆と呼ばれ、上杉謙信軍中最強と恐れられていたといいます。先陣を任されたという上田衆の打ち鳴らす陣太鼓はやがて御実城太鼓と呼ばれるようになりました。
今でも「御実城太鼓保存会」の勇壮な太鼓に当時を偲ぶことができます。
南魚沼市雪まつりは毎年2月の第二土・日曜に坂戸山の麓で開催されます。
雪まつり特設会場では、坂戸城をかたどった雪のステージで、御実城太鼓や上田五十騎組などの郷土芸能が上演されます。雪の広場では、かまくらや特産品コーナーもあり、雪国を満喫することができます。
| 所在地 | 新潟県南魚沼市雪まつり特設会場(六日町小学校脇) |
| アクセス | 関越自動車道「六日町」ICより10分 JR上越線「六日町」駅より徒歩15分 |
| 問 | 南魚沼市観光協会 025-772-7171 |
―若き日の兼続(お六)と景勝の妹(桂姫)との想像上の恋物語を謡った
後に直江兼続となる樋口与六兼続は坂戸城下で生まれました。生来の利発さを見出され、6歳のとき上杉景勝の小姓として仕えることになります。
また、景勝には2人の姉妹がいました。『常山紀談』や『名将言行録』などに「背が高く容姿端麗で頭脳明晰、文武両道に秀でた武将であった」と描写されていることからも、兼続は少年時代から聡明で美しい少年であったようです。
民謡「お六甚句」のお六とは兼続の幼名与六の愛称で、若き日の兼続と景勝の妹桂姫との想像上の恋物語が謡われています。毎年8月の「南魚沼市兼続公まつり」大民謡流しでは市民約2000人が「お六甚句」を踊ります。
| 問 | 南魚沼市観光協会 025-772-7171 |
―毘沙門堂を起点に33ヶ所の観音様をめぐる遊歩道
浦佐の旧三国街道を山側に登ったところに、坂上田村麻呂が建立したという伝承のある毘沙門堂があります。観音菩薩を祀っているこの毘沙門堂を起点として、その裏山には全長3キロの遊歩道があり、33ヶ所の観音様と麻耶山が配置されています。それぞれの観音様の前には、歌を書き込んだスタンプが置かれており、スタンプラリーを楽しむことができます。一周約2時間半の道程です。
| 所在地 | 新潟県南魚沼市 |
| アクセス |
関越自動車道「小出」ICより車10分 関越自動車道「大和PA」スマートIC(ETCのみ)より車5分 |
| 問 | 南魚沼市観光協会・大和案内所 025-777-3054 |
―関東遠征に上杉謙信が利用した険しい県境の峠
天正6年(1578)の御館の乱の際、上杉景勝は三郎景虎の援軍・北条軍を阻止しようとしました。そこで、坂戸城将の深沢刑部・樋口主水(兼続の一族)に命じて、荒戸城とともに、清水峠を監視する直路城の防備を固めさせました。
清水峠は直越え・直路・ゆのひそ越え・馬峠などとも呼ばれた群馬県と新潟県の県境の峠で、標高は1,448メートルあります。十五里尾根とは、清水から水上町へと到る尾根を越えて行く距離が、15里あったことに由来しており、古くから三国峠とともに、越後と関東を結ぶ主要道路でした。三国峠に比べて、関東への日数を1日ほど短縮できたため、戦国末期には、上杉謙信が軍道として利用したとされています。
昭和6年のJR上越線開通により、現在ではほとんど利用されなくなりましたが、多くの登山者に親しまれています。
| 所在地 | 群馬・新潟県境 | ||||||||||
| アクセス | 登山口・清水集落 関越自動車道「塩沢石打」ICより車25分 JR上越線「六日町」駅よりバス・「石打」駅より車25分 上越新幹線「越後湯沢」駅より車40分 | ||||||||||
| 問 | 南魚沼市商工観光課 025-773-6665 | ||||||||||
| 一口メモ |
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―鉄砲隊「カラス組」を編成し、国境線の守りを固めた
織田信長の侵攻に備え、直江兼続は妙高山・米山・八海山の山伏を募り、独自の鉄砲隊「カラス組」を組織しました。
魚沼連峰県立自然公園の中にある八海山は標高1,778メートルあり、越後駒ケ岳・中ノ岳とともに越後三山と呼ばれ、古来より山岳信仰の霊場でした。
今から約750年ほど前に木喰芳賢上人が開いたと伝えられている八海山は、現在でも信仰登山が盛んで、夏になると山伏と呼ばれる白衣の行者が訪れます。山麓の城内では7月1日に、大崎では10月20日になると火渡りが行われています。祭壇前の杉の木に火がつけられ、燃え尽きて黒い炭に変わったところを、家内安全・無病息災を祈願して、素足の山伏たちが渡ります。
| 所在地 | 八海山尊神社 南魚沼市大崎4161 |
| アクセス |
関越自動車道「小出」ICより車20分、「六日町」ICより車15分 |
| 問 | 八海山尊神社 025-779-2010、南魚沼市商工観光課 025-773-6665 |
―いにしえより越後と関東を結んできた主要交通路
古くから越後と関東を結ぶ主要道路で、松之山街道・直峰街道・魚沼街道・妻有街道・上田街道とも呼ばれていました。戦国時代には上杉謙信が軍道として整備し、街道沿いの城を結び関東への遠征に利用しました。天正6年(1578)の御館の乱では、三郎景虎の援軍・北条軍は、冬を前にして三国峠を越え、関東へと主力部隊を退きました。三国峠を越えた越後側は、上田庄と呼ばれる日本屈指の豪雪地帯でした。
特産品のあおそで作った糸で織り上げた越後上布は、雪の上で晒され色合いとしなやかさを増します。当時は非常に珍重され、この三国街道や魚野川の舟運を利用して、関東・京・摂津へと商いされていきました。江戸時代になると、幕府の佐渡金銀山の開発に伴って整備が進められ、参勤交代路として利用されました。
三国トンネル近くの国道からわき道に入ると、江戸時代の初めに作られた石畳が残る旧道に至ります。そこから30分ほどで、三国峠へと出ます。
―上田衆の打ち鳴らす陣太鼓の勇壮な響きを今に
景勝の直臣団の上田衆について、小説天地人の中では「押しが強い」と特徴づけられています。「一般に、越後人は出しゃばるのを嫌い、我を張らず、自分の意見を通すよりも他との協調性を重んじる傾向がある。だが、魚沼地方には峠越えで上州気質が入ったためか、物事に積極的であり、目的に向かって果敢に突きすすんでいく行動力と強固な団結力を持っていた。景勝、兼続主従を背後からささえ、後押ししたのは、その上田衆独特の気質にほかならない。」(「天地人」より)
上田衆は謙信の時代から、上杉謙信軍中最強と恐れられていたといいます。先陣を任されたという上田衆の打ち鳴らす陣太鼓はやがて御実城太鼓と呼ばれるようになりました。
今でも「御実城太鼓保存会」の勇壮な太鼓に当時を偲ぶことができます。
8月上旬の「南魚沼市兼続公まつり」と2月に開催される「南魚沼市雪まつり」を訪れて勇壮な太鼓の響きを全身で感じてみてはいかがでしょう。
| 問 | 南魚沼市観光協会 025-772-7171 |
―「雪崩」の章では兼続とお船は一緒に川舟で
小説天地人の中では、兼続の母の弔問に訪れたお船の姿が描かれています。「背が高く立ち居ふるまいが美しい」人目に立つ女性。「和歌に堪能、かつ漢籍も読みこなすという聡明な女人で、――お船さまは文殊菩薩の生まれかわりか。と下々に言われたものである」。
お船は与板城主直江大和守景綱の息女で、すでに直江家の婿養子、信綱の妻でした。そのお船を兼続が送っていく場面があります。六日町の船着場から小出の柳原まで川舟に乗っていきました。
陸路が今のように整備されていない時代には、多量の荷物を運搬する手段として川舟が利用され、魚野川は大きな役割を担っていました。川舟で日常の生活物資等を運んでいたのです。舟運の拠点として柳原町は栄えていました。小説の中で兼続とお船たちが立ち寄ったとされる諏訪神社には、欅20本、杉44本の樹林があります。中でも樹齢300年以上の大欅は必見です。
| 所在地 | 新潟県魚沼市柳原 |
| アクセス | 関越自動車道「小出」IC、「堀之内」ICより車 JR上越線、只見線「小出」駅より徒歩 |
| 問 | 魚沼市観光協会 025-792-7300 |
―歴史に名高い第4次川中島合戦の舞台となった古戦場
小説『天地人』は若き樋口与六(後の直江山城守)兼続が、弟与七とともに妻女山からこの古戦場を見下ろす場面から始まります。そこは十五年前、最も激烈を極めたという第4次川中島合戦の舞台となった場所でした。
八幡原には古くから八幡神社があり、旧本殿のまわりには信玄が本陣にしたおりに築いたと伝わる、東西35メートル・南北45メートルの土塁跡が残っています。境内には謙信・信玄一騎打ちの像「三太刀七太刀之跡」の碑や首塚などがあり、近くには軍師・山本勘助の墓や武田信繁の菩提を弔ったという典厩寺があります。
現在は周りに桜の木が植えられ、八幡原史跡公園として整備されています。
| 所在地 | 長野県長野市小島田町 |
| アクセス | 上信越自動車道「長野」ICより車7分 JR信越本線・長野新幹線「長野」駅よりバス20分 |
| 一口メモ | 駐車場151台 |
―混乱の北信濃で、北条軍を睨み景勝が布陣した山
天正十年(1582)に武田氏が滅亡すると、織田信長の家臣・森長可が海津城に入城し川中島地方を統治しますが、三ヵ月後の本能寺の変により城を放棄しました。これにより上杉景勝は北信濃に侵入してきた北条軍・徳川軍と競り合い悲願だった川中島地方を手中に収めました。その際に景勝が兼続を率いて陣をとったのが妻女山(赤坂山)です。妻女山は第4次川中島合戦の際に上杉謙信が布陣した山としても知られています。
展望台からは松代町・千曲川・川中島一帯、遠くには北アルプス・戸隠・飯綱山などが望めます。招魂社のある山は赤坂山で、妻女山山頂は南西にさらに20分登った斎場山古墳のある512メートルの頂(私有地)で、西方には鞍骨城があり、赤坂山に布陣した景勝は鞍骨山に登り、北条軍の動きを監視したと伝えられています。
| 所在地 | 長野県長野市松代町清野 |
| アクセス | 上信越自動車道「長野」ICより車10分 長野電鉄「岩野」駅より徒歩15分 |
―魚沼地方と会津を結んできた険しい山越えの旧道
豊臣秀吉は奥州の伊達政宗や関東の徳川家康を監視するため、東国支配の要である会津に、上杉景勝を国替えさせることを決意します。家中のもめごとが続く蒲生氏に代わって、景勝は120万石の会津若松城主となりました。
慶長三年(1598)三月、上杉家一行は越後から六十里越えで会津へと向かいました。雪の峠道を大きなカンジキをつけた雪踏み人足に道をつくらせ、荷物を雪舟(そり)に載せ、手にかんずりを擦り込み温めながらの厳しい道中でした。
六十里越えは魚沼地方と会津を結ぶ山越えの旧道です。標高760メートル、交通の難所であったために、実際の距離よりも長い名称がついたとされています。
現在はJR只見線や国道252号線が通じています。
幕末の戊辰戦争のおりは、新政府軍に抵抗した長岡・会津藩の兵がこの道を通り、会津へと向かいました。
―神仏に献じる花や薬草が栽培されていた
関が原の合戦に勝利した徳川家康によって、上杉家は会津から米沢三十万石に減封となりました。しかし直江兼続の本領は、むしろその後で発揮されたと言われています。
兼続は農・商・鉱工業全般にわたり内政に力を注ぎました。
あおそ、紅花、桑、漆、こうぞなどの栽培を奨励し、自ら『四季農戒書』という書物を著し村々に配ったと言います。それは農産物に関してだけでなく、働く喜びや生きる喜びをいかに得るかについての指南書でした。
幼少のころ雲洞庵の通天存達和尚から受けた「国の成り立つは民の成り立つを以ってす」という教えは、兼続のこころに深く刻まれていたのでしょう。
お花畑は毘沙門堂から北に一段降りたところにあります。そしてお花畑から東に降りると直江屋敷跡です。ここでは各御堂に献じる花や薬草などが栽培されていたとされています。
兼続の医学に対する関心の高さは、朝鮮侵略に際して肥前名古屋に在陣中に医書『済世救世方』を書写したという事実からも知られています。戦国の武将は過酷な時代状況の中で適正な自己管理が求められました。薬草も戦国の世を生き抜く上で大事な役割を果たしたのです。
| 所在地 | 新潟県上越市大豆 |
| アクセス | 北陸自動車道「上越」ICより15分 JR信越本線「春日山」駅より徒歩30分で登り口、北陸本線「直江津」駅よりバス |
| 問 | 上越市教育委員会 025-526-5111 |
| 一口メモ | 駐車場有り |
―執政として景勝を支えた天下の陪臣直江兼続の屋敷跡
天正六年(1578)に勃発した御館の乱後、上杉家の家老職に就いた樋口与六兼続は、直江家の名跡を継ぎ直江兼続と名乗りました。
もう一人の家老狩野秀治が死去すると、執政となり、内政外交にと一手に重責を担うことになります。景勝に従って初めて太閤秀吉に謁見したのは、天正十四年兼続二十七歳のときでした。
その後、新発田重家討伐、佐渡平定、小田原征伐と功績を上げ、「天下の政治を安心して預けられるのは、直江兼続など数人にすぎない」と秀吉に高く評価されたと言います。
兼続は内政にも優れた手腕を発揮し、殖産興業に尽力しました。
一方蔵書家でもありました。兼続の蔵書、宋版「史記」「漢書」「後漢書」は国宝に指定されており、「文選」(直江版)は日本初の銅活字本で、後世に大きな影響を与えました。
直江兼続屋敷跡は本丸跡北下方のお花畑から東に降りたところにあります。土塁、空堀が残っており頚城平野が見渡せます。
| 所在地 | 新潟県上越市大豆 |
| アクセス | 北陸自動車道「上越」ICより15分 JR信越本線「春日山」駅より徒歩30分で登り口、北陸本線「直江津」駅よりバス |
| 問 | 上越市教育委員会 025-526-5111 |
| 一口メモ | 駐車場有り |
―長い歴史を持つ海上交通の要衝、直江氏のルーツでも
御館の乱後の天正九年、樋口与六兼続は後継ぎの亡くなった直江家の婿となり、直江の名跡を継ぎました。直江氏は、藤原鎌足の孫にあたる京家麻呂の末裔で、直江の庄(上越市直江津地区)を賜りその姓としたと伝えられています。兼続の義父、直江大和守実綱(景綱)は奉行として政務を担当する上杉謙信の重臣でした。
直江津港の港としての歴史は遠く古代にまで遡るとされています。鎌倉時代には海上交通の要衝であったらしく、説教節「さんせう太夫」をもとにした森鴎外の小説「山椒太夫」には、この港が東西の交流の分岐点だったことが描かれています。
謙信にとって直江津港は重要な港でした。舟運によって、新潟県の特産品の「あおそ」を京や摂津に運び、巨利を得ていたのです。
関川河口の西岸には安寿と厨子王供養塔が建っています。また近くの琴平神社の境内には「文月や六日も常の夜には似ず」の松尾芭蕉の句碑があります。
―兼続の妻お船の方の名がついた山城の水源
おせんとは直江大和守景綱の娘であり信綱の未亡人、後に兼続の妻となったお船の方のことです。この清水の名はここから付けられたものです。
山麓の八坂神社から本丸跡までは遊歩道が整備されており、おせん清水は本丸へと向かう道の中ほどにあります。今でも水が湧き出ており山城の貴重な水資源であったと思われます。
兼続は生涯にわたって側室を一人も持ちませんでした。直江兼続とお船の方は仲睦まじい夫婦であったと伝えられています。
| 所在地 | 新潟県長岡市与板町与板 |
| アクセス | 北陸自動車道「中ノ島見附」ICより車20分 JR上越線、信越本線「長岡」駅、「見附」駅よりバス |
| 問 | 与板町観光協会 0258-72-3100 |
| 一口メモ | 八坂神社わきの登り口―近くのうみまち森林公園の駐車場利用可 |
―鉄砲の製造や市の開催、城下の発展にも尽くした兼続
天正九年直江家を相続した兼続は、民政にも優れた手腕を発揮しました。
新田の開発、治水整備、市の開催、鍛冶産業に力を注ぎ発展させました。与板城北方の谷間には、「館の御廊」城主の住居、「備後の小路」武士の住居、「矢の小路、竹の小路」武器の製造所などの地名が残っており館や町割りのあとを偲ぶことができます。城下は城北側の谷間と東側の水田郷にわたって存在していたと推測されています。
手工業では出雲や播磨から運ばれた鉄を使っての舟戸の鉄砲製造、交通では長岡・小千谷方面や寺泊・出雲崎方面への道が整備されました。
こうして兼続の下で、与板城を中心とした城下町の基礎は、築かれていきました。
与板十五夜まつりの映像はこちら>
楽山苑の映像はこちら>
菖蒲まつりの映像はこちら>
たちばな公園の映像はこちら>
| 所在地 | 新潟県長岡市与板町与板 |
| アクセス | 北陸自動車道「中ノ島見附」ICより車20分 JR上越線、信越本線「長岡」駅、「見附」駅よりバス |
| 問 | 与板町観光協会 0258-72-3100 |
―四百年の歳月を越えて今も息づく城山の一本杉
慶長三年(1598)、上杉景勝の会津移封に伴い、直江兼続は米沢三十万石に入りました。小説『天地人』では、「与板衆が二百余騎。ほかに若党、中間、小者を合わせ、総勢千人近い。・・・途中、与板へ立ち寄り、国替えにあたってのもろもろの指示をおこない、先祖の墓参りや土地の寺社仏閣への挨拶をすませた。」とあります。
与板城の本丸に立つこの一本の杉の木は、兼続が会津移封にあたって植樹した五本の杉のうちの一本だと伝えられています。樹齢は約四百年、根元周6.6メートル、目通り周囲3.5メートルの巨木です。
与板城の映像はこちら>
| 所在地 | 新潟県長岡市与板町与板 |
| アクセス | 北陸自動車道「中ノ島見附」ICより車20分 JR上越線、信越本線「長岡」駅「見附」駅よりバス |
| 問 | 与板町観光協会 0258-72-3100 |
| 一口メモ | 八坂神社わきの登り口―近くのうみまち森林公園の駐車場利用可 |
魚野川(うおのがわ)





