魚沼市
―「雪崩」の章では兼続とお船は一緒に川舟で
小説天地人の中では、兼続の母の弔問に訪れたお船の姿が描かれています。「背が高く立ち居ふるまいが美しい」人目に立つ女性。「和歌に堪能、かつ漢籍も読みこなすという聡明な女人で、――お船さまは文殊菩薩の生まれかわりか。と下々に言われたものである」。
お船は与板城主直江大和守景綱の息女で、すでに直江家の婿養子、信綱の妻でした。そのお船を兼続が送っていく場面があります。六日町の船着場から小出の柳原まで川舟に乗っていきました。
陸路が今のように整備されていない時代には、多量の荷物を運搬する手段として川舟が利用され、魚野川は大きな役割を担っていました。川舟で日常の生活物資等を運んでいたのです。舟運の拠点として柳原町は栄えていました。小説の中で兼続とお船たちが立ち寄ったとされる諏訪神社には、欅20本、杉44本の樹林があります。中でも樹齢300年以上の大欅は必見です。
| 所在地 | 新潟県魚沼市柳原 |
| アクセス | 関越自動車道「小出」IC、「堀之内」ICより車 JR上越線、只見線「小出」駅より徒歩 |
| 問 | 魚沼市観光協会 025-792-7300 |
―関が原の合戦に伴った「越後一揆」の舞台となった城
築城時期は不明ですが、上田長尾氏が越後平野出口の防備のために築いたと考えられています。天正六年(1578)の御館の乱では景勝方につき、栃尾城の本庄秀綱らに攻められましたが撃退しています。慶長三年(1598)、春日山城に入った堀秀治は下倉山城に家臣の小倉政熙を配しました。同五年に徳川家康が会津討伐へと進軍すると、上杉景勝は石田三成と通じ徳川方の堀秀治を倒そうと一揆を煽動します。八月一日、上杉氏の旧臣や遺民ら一揆軍が城を包囲、城主の小倉政熙は討ち死にし城は落城しました。しかし翌日には下倉山城は坂戸城主堀直竒によって奪還され、一揆軍は三条城の堀直次らに鎮圧されました。慶長十五年、堀直竒の飯山城移封により廃城となりました。
魚野川と破間川が合流する地点の北岸にある堅固な山城で、下を関越自動車道が通っています。遺構は曲輪・堀切・土塁・井戸跡・池跡が残っています。
下倉山城は新潟県の史跡に指定されていますが、地震後の影響もありますので事前にお問い合わせの上、お出かけください。
| 所在地 | 新潟県魚沼市下倉 |
| アクセス | 関越自動車道「小出」IC、「堀之内」ICより車5分 JR上越線、只見線「小出」駅より徒歩10分 |
| 問 | 魚沼市観光協会 025-792-7300 |
―魚沼地方と会津を結んできた険しい山越えの旧道
豊臣秀吉は奥州の伊達政宗や関東の徳川家康を監視するため、東国支配の要である会津に、上杉景勝を国替えさせることを決意します。家中のもめごとが続く蒲生氏に代わって、景勝は120万石の会津若松城主となりました。
慶長三年(1598)三月、上杉家一行は越後から六十里越えで会津へと向かいました。雪の峠道を大きなカンジキをつけた雪踏み人足に道をつくらせ、荷物を雪舟(そり)に載せ、手にかんずりを擦り込み温めながらの厳しい道中でした。
六十里越えは魚沼地方と会津を結ぶ山越えの旧道です。標高760メートル、交通の難所であったために、実際の距離よりも長い名称がついたとされています。
現在はJR只見線や国道252号線が通じています。
幕末の戊辰戦争のおりは、新政府軍に抵抗した長岡・会津藩の兵がこの道を通り、会津へと向かいました。
柳原町(やなぎはらまち)





