北高全祝は出羽国(山形県)の生まれです。京都普門院の住職を経て、甲府市の大泉寺の住職となりました。その後、禅師は甲州を去り、越後の上杉家の菩提寺雲洞庵の住職になったのです。
上杉景勝・直江兼続が将来名将となるべき学問はこの雲洞庵で培われました。北高全祝と通天存達の薫陶は、2人の成長に強く影響しました。
北高全祝は上杉謙信が最も敬崇し、師と仰いだ高僧といわれています。
甲斐の武田信玄にも信頼厚く、信濃路攻略が一段落した永禄年間、信玄は戦火で荒廃した龍雲寺再興をはかり、自ら中興開基となって越後の雲洞庵から北高全祝を中興開山として迎えます。
武田家三代が厚く帰依した名僧北高全祝禅師は天正14(1586)年12月、80才の高齢で寂しました。
通天存達は坂戸城主長尾政景の兄で、景勝の伯父にあたる人でした。
存達は、学問の道にすすみ、雲洞庵十世北高全祝の推挙で我が国初の大学足利学校に学んだ秀才で、のちに雲洞庵13世となります。
ゆきぐに越後、なかでも上田庄(南魚沼市)は、半年ふかく重い雪に覆われ閉ざされます。この環境のなかに、上杉景勝・直江兼続が将来名将となるべき基礎を培った少年期がありました。
2人は片時も離れず、武士の子として、剣を学び槍を構えて武芸の鍛錬に励み、学問はとくに高い関心をもって学びます。二人の学問の師である通天存達の薫陶は、2人の成長に強く影響しました。
兼続の兜の前立てには「愛」という一文字が掲げられており、これは、「国の成り立つは民の成り立つを以ってす」という
通天存達禅師の教えからなると言われています。兼続生涯の理想でもありました。
大永6年(1526年)、長尾房長の子として生まれました。上杉景勝の実父で妻の仙桃院は長尾景虎(後の上杉謙信)の姉にあたります。
天文16年(1547年)、長尾晴景と景虎が対立すると、政景は晴景側につきますが、晴景は景虎に家督を譲って隠居します。天文19年(1550年)、景虎が家督を継いだことに不満を持って謀反を起こすも、天文20年(1551年)、景虎の猛攻に遭って降伏します。
以後は景虎の重臣として活躍し、弘治2年(1556年)に家督を捨てて出家しようとする景虎を説得しておし止めるなど、様々な功を挙げます。
永禄7年(1564年)7月5日、坂戸城(南魚沼市)近くの野尻池で宇佐美定満と舟遊び中に謎の死を遂げます。享年38歳でした。
知勇兼備の武将として名高い直江兼続は、永禄3年(1560)に坂戸城主・長尾政景の家臣・樋口兼豊の長子として生まれました。幼名は与六、非凡な才能を仙桃院に見出され、6歳から景勝の小姓として仕えることになります。景勝(喜平次)と兼続(与六)は互いに切磋琢磨し、雪深い南魚沼の地で16歳まで過ごします。天正9年(1581)、与板城主・直江家を相続し直江兼続となり、豊臣政権下で上杉家執政として手腕を揮いました。慶長3年(1598)の景勝の会津移封に伴い、秀吉から家臣としては異例の米沢30万石を与えられるなど高い評価を受けます。関が原の合戦では西軍についたため、上杉家は米沢30万石へと減封となりましたが、兼続の働きにより上杉家の存続は許されました。この際米沢には家臣団6千騎と約3万人が移りましたが、兼続は城下町づくりを初め民政にも尽力し、この難局を乗り切っています。元和5年(1619)12月19日、江戸鱗屋敷でその生涯を終えました。
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兼続の人生のターニングPOINT①
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6才 |
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仙桃院に非凡な才能を見出され、景勝の小姓として仕える。
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兼続の人生のターニングPOINT②
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16才 |
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景勝と共に上杉謙信の薫陶を受けたことが一生涯「義と愛」を貫いた 兼続のベースになる。
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兼続の人生のターニングPOINT③
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19才 |
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御館の乱で景勝を勝利に導く。 厳しい戦いの中で兼続の周りには、同世代を中心とする若手が自然に 集まってきた。兼続は知識に裏づけられた行動力で人をひきつけていった。
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兼続の人生のターニングPOINT④
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21才 |
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直江家の婿養子となりお船と結婚 直江家を継ぐことで、名実ともに上杉家の重鎮となる。お船は兼続を 影から支えるだけでなく、景勝夫人をよく助け、上杉家のために力を尽くした。
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兼続の人生のターニングPOINT⑤
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28才 |
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豊臣秀吉に認められるも景勝に仕える道を選択。 兼続を自分の家臣にしたかった秀吉。兼続は「豊臣姓」も許されたが、 義を貫く兼続は首を縦にふらなかった。
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兼続の人生のターニングPOINT⑥
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40才 |
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徳川家康への挑戦状「直江状」を書き送る。 前田家は利長の母を人質として徳川家に差し出して討伐を 免れたが、家康から上杉家への詰問状に対して妥協しなかった。 |
兼続を知るためキーワード「愛」
「愛」の兜をかぶった兼続。「愛」の文字は、「愛染明王」・「愛宕権現」への信仰からきたものであるという説と、兼続の「愛民」の精神からきているという説があります。
兼続の精神の師であった上杉謙信は「仁義」の精神を非常に大切にした武将でした。兼続はこの考えを一歩前に進め、「仁」つまり「愛民」の精神を武将としての信条にしたと考えられています。
兼続の容姿は?
「背が高く、容姿端麗で頭脳明晰、文武両道に秀でた武将であった」と『名将言行録』などに描写されているので、少年時代から聡明で美しい少年であったと考えられます。
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年(西暦) |
兼続年齢 |
出来事 |
| 弘治元年(1555) | 上杉景勝、坂戸城主、長尾政景の嫡男として生まれる。 | |
| 永禄3年(1560) | 0歳 | 坂戸城(新潟県南魚沼市坂戸)の城主、長尾政景の家臣・樋口惣右衛門の嫡男として誕生。 |
| この年、上杉謙信31歳。 | ||
| 永禄4年(1561) | 1歳 | 謙信、第4回川中島合戦。 |
| 永禄7年(1564) | 4歳 | 長尾政景、船遊びの最中、溺死。のちに景勝は謙信の養子に。 |
| 天正1年(1573) | 13歳 | 織田信長、将軍足利義昭を追放、室町幕府滅亡 |
| 天正4年(1575) | 15歳 | この頃より、兼続、謙信の薫陶を受ける。 |
| 天正6年(1578) | 18歳 | 謙信、死去。 |
| 養子景勝と三郎景虎の間に家督相続をめぐって、御館の乱が起きる。 | ||
| 天正7年(1579) |
19歳 |
三郎景虎、自刃。跡を継いだ景勝は、武田家の菊姫と結婚。 |
| 天正9年(1581) | 21歳 | 兼続は直江景綱の娘・お船と結婚。以降、直江姓を名乗る。 |
| 天正10年(1582) | 22歳 | 織田軍に攻められ、上杉家滅亡の危機。 |
| 信長本能寺の変で自刃。 | ||
| 天正16年(1588) | 28歳 | 兼続、景勝について上洛し、豊臣姓を許される。 |
| 文禄元年(1592) | 32歳 | 文禄の役。景勝、兼続、渡韓。 |
| 文禄3年(1594) | 34歳 | 兼続、嫡男平八景明誕生。(幼名竹松) |
| 慶長2年(1597) | 37歳 | 慶長の役。 |
| 慶長3年(1598) | 38歳 | 会津120万石移封。兼続、米沢30万石を領す。 |
| 秀吉死去。遺命により、兼続、太刀兼光一腰拝領。 | ||
| 慶長5年(1600) | 40歳 | 関が原合戦。西軍の敗報、米沢に伝わる。 |
| 慶長6年(1601) | 41歳 | 景勝、米沢30万石に減封。 |
| 慶長8年(1603) | 43歳 | 徳川家康、征夷大将軍となり、江戸幕府を開く。 |
| 慶長9年(1604) | 44歳 | 景勝の妻菊姫、京都で死去。 |
| 兼続、本多政重を養子とし、長女お松の婿とする。 | ||
| 慶長10年(1605) | 45歳 | 次女お梅死去。長女も病死。 |
| 慶長14年(1609) | 49歳 | 兼続、大国実頼(弟)の娘を養女とし、政重に嫁す。 |
| 嫡男景明、近江膳城主戸田氏鉄の娘と結婚。 | ||
| 慶長18年(1614) | 54歳 | 大阪冬の陣。兼続。嫡男平八影明と殿軍を務める。 |
| 元和元年(1615) | 55歳 | 大阪夏の陣。大阪城落城。豊臣秀頼、淀君自刃。 |
| 豊臣氏滅亡。嫡男平八景明死去。 | ||
| 元和2年(1616) | 56歳 | 徳川家康死去。 |
| 元和5年(1619) | 60歳 | 兼続死去。 |
| 元和9年(1623) | 上杉景勝死去。 |
上杉謙信は、越後守護代長尾為景の末子として、享禄三3年(1530)1月21日、春日山城で生まれました。母は虎御前、仙桃院は姉にあたります。
7歳のとき城下の林泉寺に預けられ、天室光育禅師より文武両面にわたり厳しく養育されました。謙信の素養はこのとき培われたと言われています。19歳で春日山城に入り、守護代長尾家の家督を相続、以来30年間は遠征に明け暮れる歳月でした。
生涯に70余回も戦ったとされていますが、領土拡大のための戦はしませんでした。筋目が通っていればどこにでも駆けつけて力を貸した謙信は、乱世には稀な「義」に生きた武将でした。自ら北天の守護神毘沙門天となることにより、乱れた天下の秩序を回復すべく生涯戦い続けました。
謙信は、兼続のような才気ある若者が好きで、彼らを呼び集めては静かに酒を酌み交わし、先陣の心得や死生観を語らいます。その中で兼続は様々な薫陶を受けて、成長していきました。謙信は死の間際に「そなたの義を求めよ」という言葉を兼続に残しました。兼続はその遺志を継ぎ、生涯自らの「義」を求め続けます。
兼続が生まれる五年前の弘治元年(1555)11月27日、坂戸城主長尾政景の次男として生まれました。母は謙信の姉仙桃院です。
景勝11歳のとき兼続が小姓として仕えることになり、雲洞庵の住持北高全祝や通天存達の下、ともに学び薫陶を受けました。その後春日山城に移り謙信の養子となりました。
謙信の突然の死により勃発した御館の乱で、知勇兼ね備えた兼続に支えられ勝利し、景勝は謙信の遺領を相続しました。
景勝は寡黙でしたが、初志を貫徹する不動の心を持った大将たるべき器を備えていました。動乱の世で、執政としての兼続に絶対の信頼を置き、責任は自らがとるという度量の広い人物です。
景勝は純粋に謙信を崇敬し、謙信の「義」の精神を受け継ぐものとして、信長・秀吉・家康に対し武門の意地を貫きつつ上杉家を守りました。
生年は不明ですが、父は越後守護代の長尾為景、母は虎御前で、謙信の姉にあたります。
守護代長尾家と対立関係にあった坂戸城主の長尾政景に嫁ぎ、2男2女をもうけました。長男は10歳で早逝、次男は後の上杉景勝で上杉家を相続します。長女は上条政繁に、次女は三郎景虎に嫁ぎました。野尻池での溺死という不幸な事故で夫に先立たれた仙桃院は、30代半ばでした。
そんなおり、才気煥発な少年樋口与六を見出し、景勝の小姓として仕えさせます。その後謙信の養子となった景勝とともに春日山城へと移りました。
天正6年(1578)謙信の突然の死によって勃発した御館の乱では、景勝と三郎景虎(次女の夫)が争うことになり、辛い立場に置かれます。娘とその夫、孫を亡くすという悲しみを胸に秘め、動乱の時代を景勝とともに歩みました。慶長3年(1598)景勝について会津に移り、その後米沢城二の丸に住み、乱世に翻弄された80余年の人生を終えました。
後に兼続の妻となるお船の方は、与板城主直江景綱の娘として弘治3年(1557)に生まれました。
上野国総社長尾顕吉の子信綱を婿に迎えましたが、御館の乱後の天正9年信綱が死去。景勝の命で樋口与六兼続が直江家の婿に入ります。兼続21歳、お船24歳のときでした。1男2女をもうけ、お船の方は内助の功に徹した聡明な女性で、北条政子に似ていたとも言われています。夫婦の仲は睦まじく、兼続は生涯側室を持ちませんでした。
お船は、産後の肥立ちが悪くこの世を去った四辻大納言公遠の姫(景勝の側室)が産んだ玉丸(後の上杉定勝)の母代わりとなり養育しました。
兼続の死後、お船は後室と呼ばれ、定勝の政治に裏から尽力、女性としては異例の禄3千石を与えられました。そして、兼続の遺志であった『文選』の刊行も手がけました。
天文6六年(1537)尾張国愛知郡中村に百姓の子として生まれました。父は木下弥右衛門、母は後に大政所となる、なかです。
織田信長に仕え、次第に頭角を表していきました。天正13年(1585)に関白となり、同14年豊臣姓を賜り太政大臣に就任、豊臣政権を確立します。同14年、上杉景勝は秀吉の招きで上洛し、大坂城で秀吉に謁見しました。同18年、上杉氏も参陣した小田原征伐により全国統一を成し遂げます。慶長3年(1598)秀吉は上杉景勝に会津120万石への転封を命じ、その際兼続には臣としては異例の米沢30万石を与えました。
成り上がり者の秀吉には譜代の家臣がなく、有能で忠義に篤い兼続を「天下の陪臣」と高く評価し、直臣にしようとしますが、兼続はこれを断ります。
秀吉は6歳の秀頼を実力者であった五大老(徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家)に託し、同年8月18日に62歳の生涯を終えました。
天文11年(1542)、三河国の松平広忠の嫡男として岡崎城で生まれました。母は水野忠政の娘於大の方。
江戸幕府の初代将軍です。
慶長3年(1598)、五大老に列せられ秀頼の後見を託された家康でしたが、秀吉が死去すると政権の掌握に向けて動き出します。神指城の建設・道路の整備などを進める上杉氏に対し、謀反の疑いをかけた家康は、同5年詰問状を送りました。これに対し兼続が16ヶ条にわたり釈明したものが世に言う「直江状」です。内容は堂々と家康を非難した宣戦布告ともとれるもので、家康は「豊臣政権への謀反あり」として、上杉討伐へと兵を進めました。この誘導作戦に対し石田三成が挙兵。家康は向きを変えて、関が原での合戦となり、西軍に勝利します。同18年家康は征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開きました。その後豊臣家を滅ぼすため、同19年大坂征伐の命令を発します(大坂冬の陣)。翌元和元年、大坂夏の陣に勝利し、全国支配を成し遂げました。
永禄10年(1567)武田家の家臣真田昌幸の次男として生まれました。
天正10年(1582)織田・徳川連合軍に敗れた武田氏が滅亡すると、真田氏は織田信長に恭順し、所領を安堵されます。同年本能寺の変で信長が討たれると、真田氏は所領を守るために、上杉氏・徳川氏など周辺の大名の傘下に入り、幸村は人質として諸侯の間を転々としました。
上杉家では丁重な扱いを受け、兼続から謙信より伝わる「義」の心を伝授されます。
慶長5年(1600)関が原の合戦では西軍に加勢、昌幸・幸村父子は居城上田城に東軍秀忠軍を引き付け、秀忠は関が原の決戦に遅れました。その後は東軍についた兄・信幸のとりなしで紀州九度山に流刑となりますが、同19年の大坂冬の陣に参陣し、真田丸と呼ばれる出城を築き鉄砲隊で徳川軍を苦しめます。脅威を感じた家康は信濃一国を条件に、寝返るよう説得しますが、幸村はこれを断り、翌年の大坂夏の陣で、四天王寺近くの安居神社で討ち死にしました。享年41歳でした。
永禄3年(1560)、土豪石田正継の次男として、近江国坂田郡石田村で生まれました。
織田信長の家臣羽柴秀吉が近江長浜城主となった頃に小姓として仕え、有能な行政官僚として頭角を現していきました。
天正13年(1585)糸魚川の落水城での秀吉と上杉景勝の会見に付き従った際、半生にわたり友好を結び、互いの運命に大きな影響を及ぼしあう直江兼続と出会います。
私欲なく豊臣家のために忠誠を尽くす三成でしたが、偏狭なまでの合理性は人心を理解することに欠け、諸侯の信頼を得ることができませんでした。
その後慶長3年(1598)秀吉が死去すると、徳川家康は政権を掌握しようと動き出します。同5年三成は上杉景勝・直江兼続と通じ、家康を倒すべく挙兵しますが、老獪な家康に逆手にとられ三成討伐の大義を家康に与えてしまいます。三成の西軍は関が原の合戦に敗れ、六条河原で斬首されました。享年41歳でした。
「戦国一のかぶき者」前田慶次郎の生年については諸説あり定かではありませんが、天文11年(1541)頃だとされています。
前田利家の義理の甥にあたります。
義父の死去により前田家を出奔した慶次郎は、慶長3年(1598)兼続の義を貫く生き方に魅了され、上杉家に仕えることになります。1千石で召抱えられ、慶次郎の希望どおり組外御扶持方という自由な立場でした。関が原の合戦に伴う長谷堂城の戦いでは、殿軍を兼続とともに勤め、大槍を振るって奮戦し、武名を轟かせました。上杉氏の米沢への減封に際しては、諸侯からの高禄の申し出に対し、「天下の大名中、上杉景勝以外に仕える主はいない」と断り、わずか5百石で満足し従ったといいます。
後に「忽之斎(ひょっとさい)」と号して、米沢城外の堂森に庵(無苦庵)をあみ、花鳥風月を友に悠々自適の生活をおくりました。『無苦庵記』は「生きるだけ生きたら、死ぬるだけであろうか」という言葉で結ばれています。
永禄10年(1567)米沢城主伊達輝宗の嫡男として米沢城で生まれました。母は最上義守の娘義姫で最上義光の妹にあたります。
慶長5年(1600)上杉征伐へと兵を進めた徳川勢の動きを見て、上杉領の白石城を攻略します。関が原の合戦では家康方の東軍に属し、上杉軍の最上氏攻めに援軍を送り、長谷堂城の戦で上杉軍と交戦しました。同19年、上杉景勝とともに大坂冬の陣の先鋒を命じられています。
聚楽第で諸大名が居並ぶ席で、政宗は当時珍しかった慶長大判を取り出して見せたといいます。兼続は扇で受け取り、跳ね返しながら見たので、政宗が手にとってよく見るよう言うと、兼続は、「不肖兼続の右手は戦場にあっては、謙信殿の代よりの采配を預かるもの、左様に不浄なものに触れるわけには参りません。」そう言って、政宗のもとに投げ返しました。政宗は一言も返すことができなかったといいます。
天文7年(1538)に生まれました。美濃国一柳氏の出身で、近世初頭の傑僧です。
織田信長の安土城の記を作り、豊臣秀吉の帰依を受けました。
天正16年(1588)4月、直江兼続は上杉景勝の二度目の上洛に従った際、8月まで京に滞在し、名僧や文人達と交友を深めたといいます。中でも臨済宗妙心寺の長老・南化玄興のもとを幾度となく訪れ、『古文真宝抄』23冊を借り筆写しました。これに感じ入った南化玄興は自筆の序文を寄せています。その後さらに親交は深まり、文禄4年(1598)には秘蔵の僧万里写筆の『前漢書』12巻、慶長4年(1599)には手写した『文鑑』(漢文法の秘鑑)を兼続に贈りました。
今では本国の中国にさえ完全な形では伝えられていない宋版の『史記』・『漢書』・『後漢書』も南化和尚から伝えられたもので、現在は国宝に指定されています。
和尚は兼続のことを、「文武に到らざるなき抜群の雄士」、「利を見て義を聞かざる世の中に、利を捨て義を取る人」と高く評価しました。
永禄12年(10年とも言われています)(1569)大友家の重臣高橋紹運の嫡男として生まれました。母は斎藤長実の娘です。天正9年(1581)立花道雪の養子となりました。
豊臣秀吉の九州平定戦で軍功を立て、筑後柳川城主となります。秀吉は宗茂のことを「忠義も武勇も九州随一」と高く評価しました。
秀吉を父のように慕う宗茂は石田三成の紹介で兼続に出会います。兼続の中に自らと同じものを感じ、石田三成も交えて親交を深めていきます。
慶長5年(1600)の関が原の合戦では、法外な恩賞を条件とした家康からの合戦直前の誘いを断り、西軍(豊臣方)につきました。関が原の合戦の後は、一時浪人となりましたが、家康からの高い評価で、陸奥棚倉を与えられ、西軍についた武将としては異例の大名への復帰を果たしています。元和元年の大坂夏の陣では、宗茂が豊臣方につくのを恐れた家康が熱心に説得し、徳川方で戦いました。同6年に旧領の筑後柳川城主に復帰しました。
千利休の娘で、竹内流柔術を身に付けた男勝りで気の強い女性ですが、瞳の奥には燃えるような情熱がきらめき、兼続に思いを寄せ続けます。
秀吉に謁見するため上洛した景勝に従った兼続は、大坂の経済の中心を見てまわるうち、堺でお涼と出会いました。その後上杉家の屋敷地の隣だったこともあり、千利休の京屋敷で茶の湯を学ぶ兼続は千利休の娘のお涼と親しくなっていきます。
兼続の若き日の作として「織女惜別」という漢詩があります。「二星何ぞ恨まん隔年に逢うを 今夜床を連ねて鬱胸を散ず 私語未だ終らずして先ず涙を洒ぎ 合歓枕下五更の鐘」(牽牛・織女のふたつの星は、年に一度しか逢えないことを恨んだりするだろうか こうして二人出会い切ない胸の想いを晴らしているというのに 言葉を交わさないうちに涙が溢れ、もう語ることもできない 同床し歓びを分かち合い時間も忘れるうちに、枕下で午前4時の鐘を聞いた)。
禰津の歩き巫女ノノウ、また真田昌幸の娘でもあり、真田幸村とは母違いの姉にあたります。
ノノウは信州小県郡禰津村に住む巫女のことで、その歴史は鎌倉時代にまで遡ります。呪力を持つ巫女たちは里人から畏れられ、里から離れた巫女村をつくって暮らしていました。容姿の美麗さをもって選ばれた巫女たちは、自由に国境を行き来し、口寄せや舞をする傍ら、諸国の事情に詳しかったため、武田信玄がこれに目をつけ、諜者として利用しました。
17歳の兼続は川中島合戦によって荒れ果てた善光寺で、神秘的な美しさを持つ初音に一命を助けられます。初音は密かに秘仏善光寺如来を守り、「自分達は自由な身であり、武田は一時的に我々を利用したに過ぎない。」と兼続に告げます。
予言的霊力を持つ初音は、兼続の未来を見通し、心の底に兼続への思いを鎮めつつ兼続を助け、天下が治まることを一途に願います。
天文23年(1554)に小田原城主・北条氏康の七男として生まれました。幼名は三郎氏秀です。
元亀元年(1570)、敵対していた氏康と上杉謙信の間に和睦が成立し、越相同盟が結ばれると、人質として春日山城へと入り謙信の養子となりました。謙信は自らの幼名・景虎を与え、景勝の姉・華姫とめあわせるなど、三郎を厚遇しています。春日山城・二の丸に住むこととなった三郎景虎は、関東一の美貌の持ち主とたたえられた17歳の少年でした。
天正6年(1578)謙信の突然の死に際し、実城を占拠した景勝に抗して御館に立て篭もり、争いました。翌7年、景勝軍の猛攻撃を受け御館が落城すると、小田原へと逃亡しますが、途中立ち寄った鮫ヶ尾城で謀反に会い、26歳の若さで自害しました。
真田幸村の近習である木猿は、山伏と真田郷の村娘のあいだに生まれました。
四阿山(あずまやさん)の行場で体術を身につけ、小柄で皺の多い猿に似た顔をしています。動きが猿のように敏捷であったため、「猿飛」とも呼ばれました。
真田幸村の近習には木猿のように、早足・忍技・本草学などの特殊な技術を身につけた異能の者たちが多くいました。
上信越国境一帯に勢力を伸ばした真田氏は、山伏や禰津のノノウなどの呪術的集団を手足のように使い、情報収集や後方攪乱にあたらせたとされています。
幸村の近習たちについては、後世「真田十勇士」として物語や講談で取り上げられ、庶民の人気を得ました。伝説が生まれた背景には、幸村を陰で支えた異能の者たちの存在があったと考えられています。
天文3年(1534)5月12日、尾張守護代の家老・織田信秀の嫡男として生まれました。母は正室の土田御前です。
尾張を統一した信長は、永3三年(1559)桶狭間の戦いで駿河の今川義元を破ると、天下統一に向けて勢力を拡大していきました。
武田信玄に対抗するため上杉謙信と同盟を結びますが、信玄が死去し、信長の宗教勢力への攻撃に激怒した謙信に同盟を破棄されます。謙信は毛利氏や石山本願寺などと手を組み、信長包囲網を敷きました。織田軍は天正5年(1577)には手取川の戦いで上杉軍に敗れますが、同6年の謙信の死により勃発した上杉家の家督争い(御館の乱)に乗じて、上杉領であった能登・加賀を攻略しました。
天正10年6月2日、本能寺で家臣の明智光秀に急襲され、自害しています。享年49歳、信長の死によって天下は新しい時代へと大きく動き出しました。
生年は不明です。樋口家は『兼続伝』などにより、木曽義仲の四天王の一人と呼ばれた樋口次郎兼光を祖とすると伝えられています。
兼豊は坂戸城主・長尾政景の家臣として薪炭用人から身をおこしました。魚野川舟運・銀山経営・あおそ売買など上田長尾家の財政の舵取りを一手に任されるようになり、家老にまで出世しました。
樋口与六(後の直江山城守)兼続の父で、妻は与板城主・直江景綱の妹にあたるともいわれます。天正6年(1578)の御館の乱で戦功をあげ、同12年上杉景勝より直峰城主に命じられています。
武士というより泉州堺あたりの豪商のようで、見かけは温和ながら隙のない風貌であったとされています。
生涯にわたり裏方として兼続を支え続けた兼豊は、景勝が米沢30万石へ移封となった翌年の慶長7年(1602)9九月12日、病のため米沢城下の屋敷で死去しました。
~戦国の世を生き抜いた兼続~
上杉景勝の会津移封に従い、越後を離れることになった直江兼続は、春日山城に掛けられていた壁書に向き合い、亡き謙信の心を深く胸に刻みました。「運は天にあり、鎧は胸にあり、手柄は足にある」で始まる謙信の壁書は、戦陣での心得を記したものですが、仏道の修行の中で謙信が得た悟り「死中に生あり、生中に生なし」に由来しており、広い意味では人としての生き方を示したものでした。
結果は人が操れるものではありません。できる限りの準備をするのみです。そのときになれば、大将は胸に勇気と信念を持ち、前に進む、かといって謙信はただ闇雲に猛進する武将ではなく、引き際の見事さでも定評がありました。そして手柄は戦った部下のものでした。壁書の中で謙信は、無欲であることの強さ・大切さを説きました。
上杉討伐へと兵を進めた徳川家康が、石田三成挙兵の知らせを受けて背を向けたとき、上杉景勝は「上杉家の義ではない」と、追撃を断念します。徳川方の勝利によって米沢30万石へと減封になった際には、家臣を切り捨てることなく、各々が痛みを分かち合い、あらゆる策を講じて難局を乗り切っています。このときの兼続の政策は、後の上杉鷹山の藩政改革に受け継がれています。
~雪国の生活~
小説『天地人』には、雪国の暮らしが随所に出てきます。上杉軍には雪国ならではの陣中食・かんずりがありました。かんずりは唐辛子を雪で晒し、麹などを加えて発酵させた唐辛子味噌のことです。上杉軍の兵はこれを携帯し、寒中の行軍の際になめて体をほてらせたり、手足に塗って凍傷予防に用いました。
日本有数の豪雪地帯の上田庄(南魚沼市・湯沢町一帯)では、人々は半年近くも雪に閉ざされます。しかし春になれば、雪解け水が田を潤し、やがて秋には豊かな実りをもたらしました。越後の特産品・あおその糸を織り上げた越後上布は、雪の中で晒され、色合いとしなやかさを増します。
御館の乱の際には、三郎景虎の援軍・北条軍が荒戸城と樺沢城を一時攻略しましたが、武田軍に行く手を阻まれ、御館の景虎と合流できずに秋を迎えました。10月から3三月は、上越国境の三国峠や清水峠は雪に閉ざされます。冬を前に北条氏照は弟・氏邦を樺沢城に残して主力部隊を越後から退きました。この雪の恵みによって、景勝方は樺沢城を奪還し、氏照らは雪の中を関東へと逃げ帰りました。雪国では、長い冬の間やがて訪れる春を待ちながら、人々の暮らしが営まれます。動乱の世を、謙信から受け継いだ「義」を貫きつつ、上杉家を守った景勝と兼続の強さは、まぎれもなくこの雪国・越後で培われた心の強さ・忍耐力でした。
鈴木牧之記念館では、雪国のくらしがわかるような展示を行っています。
~上杉謙信の跡目争い~
天正6年(1578年)3月13日、上杉謙信が急死。
謙信の二人の養子、政景の子の景勝と北条氏康の子の景虎との間に後継者争いが起こります。それが「お館の乱」です。越後国内では、刈羽・古志・蒲原南部が景虎方に頚城・蒲原北部・岩船が景勝方に分かれて激しい戦いを2年間、繰り広げました。
上田庄(現在の南魚沼市・湯沢町)は景勝方となりましたが、天正6年7月、沼田城が景虎方に落ちると、北条勢は越後に侵入し、荒戸城、直路城、樺沢城を攻め落としました。冬になり北条方の大勢の兵が引き上げ、樺沢城には北条高広らが留まり、冬を越します。春を迎えて一気に景勝方が攻め入り、樺沢城を奪い返しました。
お館の乱は謙信の死から2年後、天正8年に景勝方の勝利に終わります。
(『山城樺沢城』南魚沼市今泉博物館発行より抜粋)
直江兼続の暮らし振りは非常に質素なものであったといいます。
「朝食のおかずは山椒三粒でよい」と忠告し、招かれた先で雁の吸い物が出されたときなどは、ぜいたく品だと主人に断り、吸い物を飲まず、その用人を追放したとも伝えられているほどです。身に付ける衣服も質素なもので、最も上等の羽織の裏は細かい継ぎ布を縫い合わせたものでした。
また一人息子の景明が16歳のとき、近江国膳所(ぜぜ)城主戸田氏鉄の娘と縁談が整い、戸田家から朱塗りの膳椀・金蒔絵の道具が送られて来ました。直江家でも相応する道具を揃えなければと兼続に相談したところ、「それはもってのほか。戸田家と対等の道具を揃えなければ、婚礼できないとあらば、早速破約する。武士の魂である刀や槍に錆がなければ何も恥じることはない」と語気を強めたといいます。
このように日常の暮らしは質素なものでしたが、有益な事業には多額の私財を惜しげも無く投じています。
兼続の遺品は武具と書籍だけであったと言われています。
御館の乱後の天正9年、論功行賞の争いに巻き込まれた直江信綱(お船の方の夫)が死去しました。直江家の名跡を惜しんだ上杉景勝は樋口兼続を婿に入らせ直江家を継がせます。兼続22才、お船の方25才のときでした。
お船の方は内助の功に徹した大変聡明な女性でした。北条政子に似ていたとも言われており、兼続とのあいだには1男2女をもうけています。夫婦の仲は睦まじく、当時としては珍しく兼続は生涯側室を一人も持ちませんでした。
主君景勝の側室・四辻大納言公遠の姫が玉丸(定勝)を産みますが、産後の肥立ちが悪く、この世を去ります。玉丸を母代わりとなって養育したのが、お船の方でした。
兼続の死後は後室と呼ばれ、定勝の政治に裏から尽力し、女性としては異例の禄3千石を与えられています。
またお船の方は兼続の遺志であった『文選』の刊行をも手がけており、深く理解し合い価値観を共有した夫婦であったことが、偲ばれます。
豊臣政権下、聚楽第でのことです。
諸大名が居並ぶ席で、伊達政宗は当事大変珍しかった慶長大判を懐から取り出して、皆に見せたことがありました。大判がまわって来たとき、直江兼続は扇で受け取り、跳ね返しながら見ていました。そこで、政宗は手に取ってよく見るよう言うと、兼続は「不肖兼続の右手は戦場にあっては、謙信殿の代よりの采配を預かるもの。左様に不浄なものに触れるわけには参りませぬ」。そう言って、政宗の元に投げ返しました。
政宗は一言も発することができなかったといいます。
また関が原の合戦の後、直江兼続は江戸城の廊下で伊達政宗とすれ違ったことがありました。
兼続が目礼もせずにそのまま通り過ぎようとすると、政宗は憤慨し、「陪臣の身で、六十万石の大名に挨拶もなく通り過ぎるのは無礼である」と激しく問い詰めたといいます。
振り返った兼続は「なるほど後ろから見れば紛れもない政宗公、長年、戦場ではお目にかかっておりましたが、いつも後ろ姿ばかりで正面から拝見するのは今日が初めてですので、一向に気がつきませんでした」と言い返し、政宗を赤面させたと伝えられています。
慶長3年(1598)に豊臣秀吉が死去すると、五大老の一人徳川家康は政権の掌握に向けて動き出しました。
会津へと戻り、秀吉の遺志であった神指城の建設や軍道の整備を進めていた上杉家に対して家康は謀反の疑いをかけました。
同5年に兼続と親しかった京都五山第二相国寺末寺・豊光寺の僧承兌に命じ、八ヶ条からなる詰問状を兼続に送らせます。詰問状は、景勝に上洛して言い訳をするよう求めたもので、返事次第では上杉家の興亡にかかわるという厳しい内容の文面でした。
それに対して兼続が十六か条にわたり釈明したものが、世に言う「直江状」です。
書状の中で兼続は、国替えをしたばかりで忙しく上洛できないと詫びた上で、家康の質問の言いがかりを理に照らして一つ一つ堂々と正し、謀反の告げ口をそのまま信じる家康を責め、攻めてくるのならこちらも受けて立つという宣戦布告ともとれる言葉で結んでいます。
これを受け取った家康は「豊臣政権への謀反あり」として上杉討伐へと兵を進めました。
天下統一を目指す豊臣秀吉は、天正13年(1585)の夏に糸魚川の落水城で上杉景勝と会見し、同盟関係を受け入れるよう説得しました。その会見に付き従ったのは、直江兼続と石田三成の二人だけでした。
翌14年、秀吉の招きを受けて景勝は上洛し、大阪城で秀吉に謁見します。同16年の2度目の上洛のときには、従五位下に叙任された兼続に秀吉は豊臣姓を使うことを許しています。
百姓から身を起こした秀吉には、譜代の家臣というものがいませんでした。有能で忠義に厚い兼続のことを「天下の政治を安心して預けられるのは直江兼続など数人にすぎない」とまで高く評価し、越後の一家老のなかに天下の宰相たりうる力量を認めました。
慶長3年(1598)上杉景勝を会津120万石に移封した際には、陪臣の身である兼続に大名なみの米沢30万石という異例の高禄を与えました。
秀吉の兼続に対する期待がいかに大きかったかがわかります。
米沢市にある上杉神社の「稽照殿」(宝物館)に、直江兼続所用と伝えられる「薄浅葱糸威最上胴具足」という甲冑が展示されています。
兜の前立てに金色の金属板でかたどられた大きな「愛」の一字が掲げられている、兼続の甲冑のうち最も有名なものです。
この前立ての「愛」の一字ですが、戦国時代には神仏の像や神号・仏号を前立てに用いた武将が多くいたことから、「愛染明王」・「愛宕権現」への信仰からきたものであるという説と、兼続の「愛民」の精神からきているという説があります。
兼続の精神の師であった上杉謙信は「仁義」の精神を非常に大切にした武将でした。
兼続はこの考えを一歩前に進め、「仁」つまり「愛民」の精神を武将としての信条にしたと考えられています。
民の上に立つものとして、謙信以来の「義」を中心に置いて戦は極力避けるが、避けられない戦は「愛民」の精神によって決断するという智勇兼備の武将・兼続の出陣哲学が窺えます。






