-婿の胴上げ-
毎年、1月6日の夜に六日町の上町(かんまち)にある総鎮守・八坂神社の春祭りとして行われる奇祭。
直江兼続が生涯主君とした上杉景勝の父である長尾政景が城下を繁栄させるため、他の地域から来た婿養子を祝って胴上げさせた事が始まりとされる。
それ以前は「小糠3合持ったら婿養子に行くな」という封建的な風土から婿が蔑まれ、初詣の折りに待ち伏せをしていた悪童たちから雪玉を投げられたりし、嫌がらせがあったという。しかし、当時の坂戸城主である長尾政景はこの風習を改めなければすぐれた農兵を育てることは容易でないと考えた。この時代、合戦の際には活躍する戦闘員の大半は農兵だったからだ。普段は農耕をし、合戦となると武装をし従軍するわけだ。若い兵の確保のため長尾政景は前の年に婿養子となったものを招き、お神酒を振る舞い、氏子の若者たちに胴上げをさせて前途を祝福したという。
400年以上受け継がれてきた由緒ある祭り。現在では婿養子だけではなく前年に結婚をした新郎も一緒に胴上げをして、地域全体で祝福する祭りとなっている。
神社の境内にかがり火が焚かれ、その前年に結婚をした新郎が神社に招待される。春祭りの神事が行われた後、花婿胴上げの儀式、祝い歌と謡曲などの祝宴が続き、花嫁が見守るなか太鼓を合図に婿の胴上げが盛大に行われる。時には神社の天井にぶつかり、天井を突き破ることもあるという。
八坂神社では同時に「どんと焼き」も行われる。井形に組まれた焚き火でお正月飾りやだるまなどを焼き、その年1年の健康を願う。
南魚沼市には13の温泉地がある。そのうち2つは鉱泉。
五日町に湧くこの河原沢温泉は古く、江戸の頃から地元の人たちだけではなく、その効能を伝え聞き、遠くは山を越え上州、群馬県からも訪れる人が後を絶たなかったという。
昔から農閑期に訪れ、2、3日、長い時には1週間、2週間と滞在しては人々は野良仕事の疲れを癒してきた。
関越道塩沢石打ICからわずか1分、`07-`08のスキーシーズンより名称も新たに生まれ変わったセントレジャー舞子リゾート。
ここに湧くのが舞子温泉。
ヨーロッパのリゾート地をイ メージしたというだけあって温泉ではなく「スパ」と呼ばれる施設には開放感あふれるオープンジャグジーもあるという。
南魚沼の他の温泉地とは雰囲気が異なるお湯でスパリゾート と洒落こもう。
丸山温泉は昭和39年に掘削した温泉。
スキーで来たお客さんに雪山だけではなく他の何かも楽しんでもらおうと旅館や民宿経営者の有志11軒が集まり丸山温泉組合を発足。昭和37年頃から計画を立て、地層を調べ、ゲレンデの隣に位置する山の麓に狙いを定め、掘削を開始した。何度か硬い岩盤に当りながらも地下650mほどで温泉を掘り上げたという。
そのお湯は源泉で30度ほどだがほのかに硫黄の匂いが漂ういいお湯だという。
そんなお湯を楽しみにグリーンシーズンの石打丸山スキー場を訪ねてみることにした。
直江兼続が食したのは「あんぼ」
笹だんごは400年以上も前からこの越後に受け継がれている食べ物である。一説によるとその起源は上杉謙信が兵の携帯食として作らせたという。しかし、謙信自身が考案したというより謙信に仕える家臣が作ったと考えた方が自然だ。実際に「北越軍記」によると家臣の宇佐美定満の発案と記され、また「北越風土記」には謙信が春日山城を出る際、柏崎城主に仕えていた菓子職人が兵糧として中国の粽に似せて考え出したと記されているそうだ。いずれにせよ笹の抗菌力が保存食として優れ、薬草としても昔から親しまれていたヨモギの風味の良さが食欲をそそり、疲れた兵にも食べやすいものだったのだろう。
しかし、謙信の時代も、兼続の時代も現在の笹だんごのようにあんこは入っていない。ただヨモギを混ぜた草もちを笹で包んだ「あんぽ」だったようだ。
それは江戸時代までは砂糖は大変な貴重品であったからだ。砂糖を庶民が口にできるようになったのは明治時代になってからである。
また、合戦に持っていくことを考えれば中になにも入れない方が保存性は優れている。兼続が食べた笹だんごは草もちのようなものっだったのだろう。
あんこの入らない「あんぼ」(おやき)別名やくもちの笹だんご。戦国時代のもちは今のような柔らかさはなく、時間が経つと堅くなってしまう。戦地では食べる際に湯の中にいれ再び温めたのではないだろうか。笹で包まれていることで温めることが容易であった。
現在の笹だんごは上の写真のようにあんこが入っている。また野菜のきんぴらやクルミ味噌などあんこ以外のものが入った「あえもんだんご」もある。
端午の節句と笹だんご
新潟では旧暦で節句を祝う習慣がある。笹だんごも旧暦の端午の節句に無病息災を願って食べられてきた。雪解けと同時に顔をだすヨモギの新芽と前年の初夏に採取し、乾燥保存しておいた笹の葉を使い作る笹だんご。その起源は合戦の際の携帯食であったが、屑米でも美味しく食べられること、もちにつき込まれるヨモギの栄養の高さなどから身分の低い農民たちの間に少しずつ広がっていったのだろう。それが日常の食べもととしてだけではなく、端午の節句や田植えの際の五穀豊穣を願うハレの日の食べもとなった。現在では笹だんごは越後を代表するもち菓子であり、その素朴な味わいは全国的にも知られている。
4月に入り日当りのいい山肌では落ち葉の間から新芽をだすヨモギ。細かい白毛に覆われた柔らかい若芽を採取。香りが断然いい。
笹の葉も6月から7月にでる新芽を採取。乾燥させて保存しておく。必要に応じて水につけて戻して使う。
ひとつの笹だんごには葉の大きさによって2枚、または3枚の笹の葉を使用。くるりと包んだあとにスゲまたはイグサで縛っていく。その後10~15分ほど蒸し上げるため笹の香りがもちにに移る。
撮影協力 孝泉堂製菓
上杉家とそばと織物の深い関係
盛りつける動作は「手振り」、「手びれ」とも呼ばれこれは織物をする時の糸を「かせぐり」がなまったもの。へぎへの並べ方も織りの目に模したものだという。
つなぎに使うふのりも織物に深く関係している。南魚沼や小千谷、十日町などでは麻織物を織る際にふのりを使用していた。そばを打つ時にたまたま身近にあったふのりを使ったのがふのりそばの始まりとされる。
しかし、そばの歴史を紐解けば現在のような麺として、そばぎりとして食べられるようになったのは江戸時代の初めの頃。縄文時代から食されていたそばだが、そばぎり以前はそばがきやそば団子、また雑炊、すいとんに入れて食べていたようだ。したがって直江兼続が生きた戦国時代はまだ麺としてのそばはなかったのである。
しかし、へぎそばは兼続が仕えた上杉家と大きく関わりがある。それは現在でも織り継がれている越後上布、小千谷ちぢみが苧麻(ちょま)とも呼ばれるからむしが材料になっているからだ。その苧麻から繊維を取り出して乾燥させた「青苧」(あおそ)は上杉謙信の時代から上杉家にとっては大切な財源であったのだ。謙信は越後の特産品として青苧を魚野川や信濃川を下り柏崎など日本海から「苧船」、「越後船」によって京や奈良へ運んでいた。したがって上杉家が繁栄していなければこのへぎそばは生まれていないといっても過言ではないのだ。
栄養価の高いそばは忍者も注目
直江兼続が生きた戦国時代でもその栄養の高さは注目されていた。それが忍者が任務に就く時に携帯した忍者食「兵糧丸」だ。時代劇などで忍者が天井裏や床下に忍びこんでいるシーンをよく見るがあれは実際にあった。しかも場合によっては数日間も潜伏していたというから驚きだ。そんな時に食事として食べていたのが兵糧丸だ。そのなかのひとつにそば粉とともにニンジン、小麦粉、山芋、はこべなど野草を粉末にし、酒に浸して長時間寝かせたものをひと口大に丸めて団子のようにしたものもある。
直江兼続は食べたかどうか定かではないが、兼続を尊敬し、親しく付き合っていた真田幸村はそばを団子にしたものを懐に忍ばせていただろう。
金山とともに上杉家の財源を支えた青苧。謙信は後継者を決めずに突然倒れ、そのまま死んでしまう。残された2人の養子である景勝と景虎が家督争いをし「御館の乱」となったのはあまりにも有名。兼続はいち早く謙信の城のある春日山の金蔵をおさえたため、主君である景勝が相続権争いに勝ったとされている。
苧麻から織られる麻織物は糸が切れやすい。そのため「糊つけ」という工程で一本ずつふのりをつけて糸作りをしていく。また、糸が切れないようにふのりをつけながら織っていくこともある。
ひと口大ほどの大きさにきれいに揃えられ、手振りされたへぎそば。つなぎにふのりを使ったコシのある滑らかなそばだから美しく盛りつけることができる。
へぎとは「剥ぐ」(はぐ)がなまったもの。木をはいだ板を折敷だ。茹で上がったそばを冷水でしめて、この器にひと口ずつ手振りしていく。
柔らかくとろけるような食感は山のごっつぉ
まだ、雪が残る早春のふーきんとう(ふきのとう)に始まり、うこぎ、木の芽(あけびの新芽)、こごみ、たらの芽、わらびと次から次に山菜が芽をだしてくる。誰もが自宅近くの山に自分の持ち場、縄張りのようなものがいくつかあり、そのポイント、ポイントに行って採取する。山に行けば何かしらの収穫が得られる。嬉しいからまた山に行く。雪国の春は山も人も笑うのである。
そんな山菜のなかでも特別なのがぜんまいだ。ぜんまいは山菜のなかでも特にアクが強い。採取したものをすぐに食べることはほとんどない。綿毛を取り、ゆがいてアク抜きをし、なんべんももみながら天日干し、乾燥させる。そして食べる時も沸騰直前までゆがき、湯がさめるまで置きということを繰り返す。人によってはさらに何日か放置してふっくらと戻す。とにかく口に入るまで手も時間も掛かる。
しかしぜんまいの独特の歯応えやまろやかな風味は南魚沼にとってはなくてはならない味だ。仏事、祝い事など行事の際にはくるみ和えにしたり、煮もん(煮もの)にしたりとさまざまな料理・ごっつぉ(ご馳走)となって供されるのだ。
山で採取したぜんまいは綿毛をとり、ゆがいてから天日に干す。何度も手もみ作業をしながら乾燥させていく。密封しておけば長期間保存がきく。
乾燥ぜんまいはたっぷりの水に入れて火にかけ、沸騰する手前で湯を捨てる。この作業を3回繰り返す。再び水からゆで沸騰前に火からおろし、1日放置すればふっくらとした状態に戻る。
勝利を願って振る舞われたかちどき飯、お発ち飯
もちろん、そのなかにはぜんまいを使った煮ものや和えものも膳にのったのであろう。また、出陣の膳以外にもぜんまいは野戦食として携帯させた「謙信ずし」と呼ばれる笹ずしにも使われている。これは元々奥信濃の郷土料理。武田信玄との川中島の合戦の軍勢を進める際に通った長野県飯山市の富倉峠周辺の民たちが上杉陣に送ったものだ。ぜんまい、かんぴょう、しいたけなどを味噌で味をつけたものとクルミ、紅しょうがなどを酢飯にのせ、軽く押しをかけたものである。通常は笹の葉の上にのせて食べるが、笹で包めば携帯に便利な保存食ともなるわけだ。
春に収穫したぜんまいを天日に干し、1年中食べられるようにする。ぜんまいは先人たちの知恵がつまった雪国の貴重な保存食である。
謙信ずしとも呼ばれる長野県飯山市の笹ずし。現在も富倉峠を登りきったところに謙信が軍勢を休ませ、笹ずしを食べたという「大将陣」が残っている。新潟でもこの笹ずしは上越地方の一部に郷土料理として伝わっている。
現在、若い人たちにとってぜんまいは煮もんや和えものより、ビビンバのほうが親しみがある。南魚沼の学校給食でもビビンバは1、2を争うほどの人気メニューだ。ご飯はもちろん魚沼産のコシヒカリ。旨いのは当然だ。
撮影協力 大阪屋
戦国時代から魚沼に伝わる郷土料理
米処魚沼らしい米を使った郷土料理「けんさん焼き」。にぎり飯、または半殺し(半分つぶした)にしたご飯にしょうが味噌を塗り、串に刺して軽く焼いた焼きにぎりだ。けんさ焼き、けんしん焼きとも呼ばれ、その名前でわかるとおり直江兼続が尊敬してやまない上杉謙信に由来した食べ物である。
しかし、けんさん焼きにはさまざまな説がある。修行僧が始めた「研鑽焼き」といういわれもあるが、やはり有力とされるの上杉謙信説。
謙信が出陣の際ににぎり飯を焼き、兵糧として持って行ったというもの。米は焼くことにより保存性が高まる。それを殺菌作用の強い笹の葉や竹の皮で包んで持ち歩けば野戦食として適したものであった。そして食べる際に剣先に刺して再び火で焼いて温めたという。その「剣先き焼き」がなまりけんさん焼き、けんさ焼きとなったという。
しかし、武士である上杉謙信が剣に食べ物を刺すという行動をとるであろうか。けんさん焼きは謙信自身よりも部下、しかも身分の低い足軽で普段は農耕をし、戦となると徴兵される農民たちが食していたのではないだろうか。当時は武田信玄と戦った川中島の戦いなど長期戦などは別にして、3日、4日ほどで戻ってこられるような合戦の場合、足軽など雑兵(ぞうひょう)は腰兵糧(手弁当)で参加したという。そんな時に持参したのがこのにぎり飯だったのあろう。
また、にぎり飯に塗る味噌、しょうが味噌も兵糧として欠かせないものだったようだ。特に謙信の宿敵といえる武田軍では味噌に糠などを一緒に混ぜた「甚太味噌」を考案したという。「陣立て」から転じたこの甚太味噌は戦地で湯に溶かして飲んだというから現代でいう「即席味噌汁」のようなものだ。また山梨の郷土料理として知られる「ほうとう」も武田軍の兵糧だったという説もある。信玄自ら刀で具材を刻んだことから「宝刀」という字を書くこともある。
正月の夜食、新米の収穫を祝う行事食
魚沼では現在もけんさん焼きは食べられている。しかし、その食べ方は焼きおにぎりとしてだけではなく、ほうじ茶や番茶、または出し汁をかけて茶漬けにすることもあるという。特に正月の宴会の〆に供され、さらさらとかけこんだりするそうだ。また、秋の収穫祭の時、その年の収穫したての新米でにぎり飯を作りしょうが味噌を塗り、香ばしく焼いて豊作に感謝する、祝い飯としても食べられている。
全国的にみると焼きおにぎりは醤油味が一般的のようだが、けんさん焼きはあくまでも味噌味だ。なぜ、味噌かというと上杉謙信、直江兼続の生きた室町時代は醤油は普及していなかったからだ。日本の味を代表する調味料・醤油がなかったというのは驚きだが、醤油が完成されたのは江戸時代に入ってからだ。醤油のルーツにあたる醤(ひしお)は縄文時代末期の頃からあったとされるが、謙信、兼続の生きた時代は醤油そのものはなく、塩や味噌、そのほかに梅干し、くるみ、枝豆などもつぶしたり、酒に浸したりして調味料として使われていたようだ。
12年におよぶ川中島での戦いで、関東出陣のおり謙信がどこかで食べたであろうけんさん焼き、また、謙信を偲びながら兼続も食べたであろうけんさん焼き。米の旨さがストレートに味わえる南魚沼が誇る郷土料理である。
にぎり飯にしょうがを効かせた味噌を塗って香ばしく焼いたけんさん焼き。
正月や酒宴の最後に供されるときはしょうが、大根おろし、鰹節など薬味もたっぷり添えられてくる。
熱々のほうじ茶をかけると味噌としょうがの香りが立ち上がり、飲んだあとでもさらりといただける。
六日町・永松地区出身の関 文代さん。幼い頃学校から帰ると囲炉裏にしょうが味噌を塗った焼きおにぎりがあり、それがおやつだったという。けんさん焼きは行事食としてだけではなく、日常の食べ物として南魚沼に残っている。
撮影協力 温泉御宿 龍言 (TEL 025-772-3470)
南魚沼市にはスキー場の名前が付いた駅がある、さすがウィンタースポーツのメッカ、スキー場が多い土地柄ならではだと言えるだろう。
その駅はJR上越線「上越国際スキー場前駅」。
駅がゲレンデ前に有り、更に名湯まで楽しむ事が出来るこの地域の懐の深さは素晴らしいの一言に尽きる。スキーヤー、スノーボーダーにとって堪らない施設と同時に、一般の温泉好きにも堂々とお奨めできる樺野沢温泉・縄文の湯なのだ。
一つの市の中に13もの温泉地があるという新潟県南魚沼市。
その一つ一つの温泉の違いを確かめたくて「ぶらっ」と気ままなたびに出た。
初回の訪問地は「大沢山温泉」。
塩沢地区にあるこの温泉は江戸時代(寛永)に開湯したと言われている地元でも越後一の秘湯と呼ばれている温泉地なのだ。
もう一つの楽しみは「魚沼コシヒカリ」、中でも「塩沢コシヒカリ」は日本一と言われ有名。今回は、この「米」を思う存分味わいたいと思うのである。
さて、南魚沼市の中心街と言えば六日町。
六日町には坂戸城の坂戸山があるところである。
今回は「直江兼続」を知る旅にしたいというのが第一目的。
特に今回は地元の人に坂戸城を案内してもらえることになり楽しみにしてきた。
もちろん、一番の楽しみは登山の後の温泉になるのだが・・・・・・
先回の六日町温泉から西に位置するのが上の原高原温泉。
冬はスキー、夏はスポーツ合宿と一年を通して賑わいを見せる。街中の温泉とは違い静かな立地の温泉地である。
上の原高原の泉質は弱めのナトリウム塩化泉、無色透明で良く温まるお湯。
2007年には無料の「足湯」もオープンし、ろ過循環も加温も加水もしていない源泉のお湯は温泉好きにはたまらない。
南魚沼市唯一の新幹線駅があるのが「浦佐」。
駅の前にあるのが清流「魚野川」 大河信濃川に注ぐ支流の一つ。
本日は、魚野川の鮎を楽しみにここ浦佐にやってきた。
この魚野川は鮎だけでなく川魚の宝庫。「ヤマメ」「イワナ」「ウグイ」「コイ」などなどたくさんの種類が棲息している。
のどかな田園風景をゆっくりと歩けば身も心も芯からリラックスできるというもの、浦佐温泉は駅の傍にあるので、このまま歩いて向かうことにしよう。
本日の南魚沼市の温泉めぐりは「湯治」がキーワード。
「湯治」と聞いて懐かしく感じる人も多いと思いますが知らないという若い世代も多いのでは?と思います。 「湯治」は「温泉を利用して身体の治療や治癒を目的として長期滞在すること」が広く知られている定義でしょう。
この「湯治」が今また見直されているらしいので、さっそく湯治の湯として有名な石打地区の上野鉱泉へとやってきました。
自然と人工二つの雄大な風景があると言うので是非見たいと思いやってきたのが今回の畔地温泉。
比較的新しい開湯の温泉地なのだが近くには大自然がいっぱい。そして人工的な雄大な景観というものもある。人工的な景観とはロックフィルダムであった。
今回の目的地は三国ダム。稲刈りの終わった秋の風景を楽しみながらドライブとしよう。
「まだまだ紅葉見れますよ」の案内で今回も車での来訪となった南魚沼市。
時期的には初冬と言うべきところなのだが、訪れたこの日は快晴、素晴らしい青空だ。
今回の目的地は栃窪峠の麓にある栃窪温泉。
風景と人情が織り成す、この山里の風情が湯と同化して身体の疲労回復だけでなく、心までを癒してくれる。
南魚沼市は雪国、雪国の温泉と言えば「雪見風呂」なんとも贅沢な響きですね。
初雪の便りが届いたので、是非ともこの「贅沢さ」をたっぷり味わいたくやってきました。
降りしきる雪の中を目指すはハツカ石温泉。
大自然の素晴らしい景観と湯けむりに身も心も投げ出してリラックスするのが「湯めぐり」の醍醐味ですね。
綺麗な湧き水や名水が多いのも南魚沼市の魅力の一つ、今回は大露天風呂の天然掛け流し温泉を楽しむとともに、こうした名水を巡ってみることにした。
歴史は新しいのだが素晴らしい天然掛け流しの名泉 五十沢温泉。
手拭を頭に載せて露天風呂に浸かり「ふー!」と心地よいため息を出す。
そんな温泉のイメージを体験できるところであった。






