樺沢城五天(本丸)跡(かばさわじょうごてん)
―御館の乱では小田原北条氏に攻略された城
南魚沼市樺野沢にあります。上杉景勝は弘治元年(1555)この城で生まれたと言われており、城の中腹には景勝のへその緒を収めたという胞衣(えな)塚が安置されています。
樺沢城の築城時期は定かではありませんが、上越から関東へと通ずる三国街道、清水街道の分岐点にあたっており、戦国時代は坂戸城の支城としての役割を果たしました。上杉謙信の関東遠征時には、宿城でもありました。
本丸跡の標高は300メートルで中世の山城です。遺構がよく残っており、鉢巻状石垣の一部なども見られます。中腹より下は三重四重の空堀土塁で防御していたという堅牢な城でした。
謙信亡き後の御館の乱では、景虎方についた北条氏と景勝方との主戦場となりました。慶長3年の上杉氏の会津移封にともない廃城となり城の幕を閉じました。
現在は新潟県の指定文化財となり、遊歩道や案内標識などが整備されています。
| 所在地 | 新潟県南魚沼市樺野沢 |
| アクセス | 関越自動車道「塩沢石打」ICより車10分 JR上越新幹線「越後湯沢」駅より車20分 JR上越線「上越国際スキー場前」駅より徒歩3分 |
| 問 | 南魚沼市教育委員会 025-777-4671 |
| 一口メモ | 駐車場:20台 |
天正六年(1578)に上杉謙信が亡くなると、家督をめぐって上杉景勝(上田長尾氏からの養子)と上杉景虎(小田原北条氏からの養子)とのあいだで、越後を二分する内乱「御館の乱」が起こりました。
景勝は春日山城に、景虎は御館に立て篭もりました。
御館とは謙信が関東管領上杉憲政を迎え入れた時に、その居館として建てた館で、春日山城下にありました。
景虎の実家である小田原北条氏は、景虎方につき、縁戚関係にあった武田勝頼に援軍を頼みます。勝頼はこれに応じ、二万の軍勢で春日山城まで五里(20キロメートル)にまで迫りました。今まで謙信上洛の留守中以外は、越後領内への侵入を許したことのなかった上杉家は、存亡の危機に立たされます。
これに際して兼続は「武田と手を結ぶ」という秘策を講じます。それは武田家内の勝頼の立場の弱さに目をつけた作戦でした。勝頼は、北条氏が景虎救援の軍をいまだ送らないことに疑念を持ち、東上野割譲と黄金一万両を条件に和議に応じ、八月、越後国内から撤退を始めます。しかし九月に北条軍二万が上越国境に向けて進軍、三国峠を越えて坂戸城に迫りました。城方はわずか八百、景勝は栗林政頼ら上田衆を坂戸へと送り、城の防備を固めさせましたが、北条軍は寄居城、荒砥城を落とし、ついに樺沢城を攻略してしまいます。
その後坂戸城を攻めますが、三国峠や清水峠が雪に閉ざされる冬がそこまで迫っていました。北条氏照は弟氏邦を樺沢城の留守将として残し、冬を前に関東に撤退します。
翌天正七年(1579)二月、景勝は坂戸城に篭もる上田衆に、樺沢城攻めを命じ、北条氏邦らは関東へと逃げました。三月には、景勝に攻撃され、御館は炎上し落城しました。景虎は小田原へ逃れるべく鮫ケ尾城に立ち寄りますが、寝返りにより自刃しました。その後も越後各地で戦闘は続き、景勝は天正八年四月に栃尾城を、七月に三条城を攻略し、翌天正九年に三年にわたった動乱も終わりを告げました。






